前回の続きです。
五つ時(午前8時)、浅野内匠頭は、江戸城本丸御殿に登城し、勅使を迎える場所を聞くために吉良上野介を探すが、柳の間にはいない。
式の30分前になって、吉良が柳の間に入ってきたので聞くと、今になって聞くのは思慮が足りないと罵られる。
その時、梶川与惣兵衛は、勅使の登城が早まったので吉良を探すが居ないので浅野にその旨を託す。
午前11時ごろ、梶川は、吉良に松之廊下で会い、話かけるその時、浅野が「この間の遺恨をおぼえたるか」と声をかけて、吉良の背後から切りかかった。
梶川は、「殿中でござる」と浅野を背後から抱きかかえ止めて、吉良は浅手で済んだというのが、事の成り行きと推察されています。
推察というのは、確かな資料がなく、当時の梶川の日記にも詳細は記載されていないそうです。
浅野家の家紋 梶川家の家紋
当時、梶川与惣兵衛頼照は、53歳で700石の旗本で、江戸城大奥御留守居番で桂昌院(将軍 綱吉の母堂)付きでした。
五万石 しっかり抱いて 五百石
このとき、騒ぎを収めたる功神妙ということで、五百石を加増されています。
が、その後、彼は、「武士の情けを知らぬ」と武士仲間からは勿論、一般庶民に至るまで軽蔑されました。
彼は、このような事態になるとは、「想定の範囲外」であったに違いありません。