何故、浅野匠内頭長矩は、吉良上野介義央に斬りつけたのでしょうか?
元禄14年(1701年)3月10日~18日まで、東山天皇の勅使と霊元法王の院使が江戸に着ており、3月14日は、帰洛のあいさつが行われ予定でした。将軍の徳川綱吉と御台所、桂昌院(綱吉の母)から、勅使・院使への贈り物をするというものです。
事件が起こったのは、午前11時頃、浅野匠内頭(35歳)が吉良上野介(61歳)に松の廊下で刃傷に及んだと言うものです。
松の廊下の推察CG 狩野寿石秀信の筆とされています。
富田林市興正寺別院にある松の襖絵
刃傷事件の原因については、一般的には、上野介が匠内頭の進物の少ないのに対して意地悪をし、それに怒った匠内頭が斬りつけたものということになっています。
しかし、匠内頭は二度目の勅使ご馳走役であり、以前にも上野介に指図を受けています。匠内頭の家来も役目には慣れているはずであり、指南役に進物を送るのは、授業料・必要経費の性格で当時は常識であり、進物が少ないという原因はないと思われます。嫌がらせをすれば、指南役として上野介の責任となり、意地悪云々はありえなかったと思われます。
吉良上野介の肖像画 吉良家の家紋(二つ引両)
「清和源氏足利氏流」
原因として、匠内頭の痞え(つかえ)の持病があり、突発的に起きた乱心説。
饗応費の出費の問題で意見が対立したとする饗応費説。
両者の国許の塩田の製法と販路をめぐっての塩田説。
色々な原因の説がありますが、どれも決定的ではなく、空想の域を出ず、この刃傷事件の真相は、今もって謎とされています。