赤穂浪士の討入りは、元禄15年(1702年)12月14日とされていますが、正式には12月15日の早朝午前4時ごろのようです。
当時は、夜が明けるまでは、まだ前日の日付けとしていました。14日は、月こそ異なるが主君の浅野内匠頭の命日であり、その日は、吉良邸にて茶会があることが分かりその日に討入りを決めたようです。
卯の刻(午前6時)頃に本懐を遂げ、辰の刻(午前8時)頃、浅野内匠頭の墓のある泉岳寺に着き、墓前に上野介の首を供え、仇討ちを報告したと伝えられています。
吉良邸跡(公園) 吉良邸周辺図
この時、浪士47人は、46人になっていました。 寺坂吉右衛門が浪士から抜けていますが、その説にも色々あります。 一般的には、身分が唯一の足軽で、浅野家とは、陪臣で寺坂の主君は、47士の吉田忠左衛門であり、大石内蔵助が逃がしたとされています。 そして、浅野内匠頭の弟の大学に報告に行かせたというものです。又、臆病風に吹かれて逃げたと言う説もあります。
この寺坂吉右衛門は、その後、数奇な人生を歩んだようです。吉田忠左衛門の娘婿のいる姫路藩士の足軽になったとか、長崎の五島列島に行ったとか(現に墓があるようです)言われています。
泉岳寺にも、寺坂の墓がありますが、これは明治になって建立されたようです。 享年83歳であったそうです。
この赤穂浪士には、その他色々の逸話があり、日本人の好みに合った物語に仕上げていったようですが、これも昔からの日本人気質が反映している事に違いありません。
浅野内匠頭の終焉の場所 大石内蔵助