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極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

新自由主義からデジタル・ケイジアン

2013年03月14日 | 時事書評

 

 

 

 

 

【新たな飛躍に向けて-新自由主義からデジタル・ケイジアンへの道】 

ここまで、ポストフォーディズム-アンソニーギデンズの『社会学』で定義されるところの
フォーディズムの方式が特徴づけるような大量の工業生産から、特注製品にたいする市場の
需要を満たす、もっと融通性に富んだ生産形態へ移行することを記述するための一般的な用
語-として登場した新自由主義の歴史的背景を、デヴィッド・ハーヴェイの見識(『新自由
主義-その歴史的展開と現在 』 20070310 渡辺 治 監訳、作品社、395p 2600)を通して
考えてきた。そして、新しいエリート階層の出現と権力支配の再形成-資本による収奪過程
-ととらえその支配過程で発生する抵抗運動、あるいはそれまでの資本に支配された新自由
主義運動とは異にする、新たなる自由運動のローカルでありグローバールな様々な運動との
結合により新たなる秩序形成に向けたうねりをデヴィッド・ハーヴェイは「オルタナティブ
に向けて」として自由の展望を見据えた。
そのことを踏まえつつ、「オルタナティブに向け
て」の一つの視座を提起できればと考え以下の構成で寄稿する。

1.タブーと経路依存性
2.
複雑系と経路依存性
3.
複雑系と計量経済学
4.ケインズ経済学の現在化
5.
新自由主義からデジタル・ケイジアン

 

 【タブーと経路依存性】

タブーについて

寄稿にあたり次の三点について確認しておきたい。昨年3月16日に他界した日本の思想家吉
本隆明の言葉-その一つが、「人類は根拠のないタブーをつくらないと済まない」(吉本隆
明・茂木健一郎共著『「すべてを引き受ける」という思想』、光文社)-という問題提起で
ある。


 ぼくの考え方からいうと、君たちはちょっと思い違いしているんだよ、といいたいとこ
 ろがあるわけですが、では、どうすれば思い違いではないといえるのかとなると、はっ
 きりした解答を見出すのはなかなかむずかしい。いまの段階ではちょっとむずかしいな
 と思います。ただし、ホスピス医や進歩的な政治家が「いいことだ」と思っていること
 は、じつはけっしてよくないことなんだということだけは自分なりに確信があります。
 人間というか人類には、根拠のないタブーをつくらないと済まないようなところがあり
 ます
。そういうところだけは動物の習慣性と同じで、その点ではまず動物性を脱してい
 ないといえます。日本でいえば、被差別問題のようなものがありますが、差別
 に何か根拠があるのかといえば、何もない。人種的にもないし種族的な理由もない。そ
 こで理由とされているのは職業です。あの人たちは牛とか馬とか、動物を殺すことを職
 業としていて不浄だと決めつけるわけですが、ぽくが調べたところでは、の人は農
 業がいちばん多いんです。だとすれば、動物殺しも根拠にならないし、それに動物を殺
 すのがいけないというなら食うほうがなおさらいけないじやないか。食うときだけは食
 っておきながら、動物を殺すのはいけないなんて、そんな馬鹿な話はない。では、
 差別に何の根拠があるのかといえば、人間にはタブーをつくらないと生きていけないと
 いう要素がまだ残っている、ということ以外には何も根拠はない。これがヨーロッパだ
 と、ユダヤ人問題になります。もちろん、これにも何の根拠もありません。ユダヤ人は
 金権主義でお金を貯めているというけど、それも嘘です。なかには大金持ちもいるでし
 ょうが、大学者や大芸術家も大勢いて、ユダヤ人がとくにお金のことばかり考えている
 わけではない。ユダヤ人問題の本質は宗数的なタブーです。そこへ優生思想などを持ち
 出して、短期間に片づけてしまおうとしたのがヒトラーですが、まったく馬鹿なことを
 したとしかいいようがありません。ここはマルクスなどもいちぱんこだわった問題です。
 つまり、当時の進歩派の言い方によれば、「宗教なんていうのはみんな迷妄なんだから
 キリスト教もイスラム教もユダヤ教も全部すっ飛ばして唯物論的にすればいい」。これ
 が当時の進歩派の考え方ですが、マルクスはひとりそれに反対して、「そうじゃないん
 だ」といった。要するに、宗教をすっ飛ばすことと人間的な解放はまったく別の問題だ
 どいうのがマルクスの考え方でした
。当時の進歩派と比べれば、はるかに保守的な考え
 方ですが、ぼくは当時にあってもマルクスの考えのほうが妥当だと思います。

 

これに対し、茂木健一郎は「利己的な本能と理性の役割」という観点から次のように補完す
るように質問する。


  生物学者のリチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)という本の
 なかで、「そもそも生物というものは利己的なものであって、利他主義だとか平和主義
 だといったことは、生物学的な原理としては希望しえない」という意味のことを書いて
 います。また、生物は仲間同士殺し合わないのに人間はなぜ殺し合うのか、といったナ
  イーブな議論がありますけれども、実際には生物はお互いに殺し合うし、子殺したって
  あります。その意味では、人間が核兵器をつくって、人類という種自体をお互いに殲滅
  し合うようなことになってしまったのも生物の進化のなかではごくふつうの振る舞いだ
  といえると思い ます。しかしその一方で、ドーキンスは、「人間は理性、理念、理想と
  いったものも手に入れた」といっています。ということは、われわれ人間は古典的な意
  味での生物から一歩踏み外している(あるいは、踏み出している
)ところがあるから、
  平和とか非職といったことも考えられるのだということになります。これまで大勢の編
  集者と会ってきて、わたしが前々から感じていたのは、いわゆる進歩的な左翼の人より
  も、右翼っぽい人のほうが生き物らしいということです。声高に日本を主張する人たち

  のほうが生き物としては勢いがあるせいだと思いますが、それはドーキンスの利己的遺
  伝子の理論に照らし合わせても当然の話です。しかし、生物としての本能が出すぎてい
  るきらいもあって、たとえばナチスに利用されたニーチエの「生命哲学」あたりまでさ
  かのぼって考えると、ある種危険な流れでもあるように感じます。同様のことは、一般
  社会の生活感情についても見られます。つまり、最近の傾向はちょっとナショナリズム
  的な回路と共鳴しはじめているような感じがします。そのとき、知識人という存在は伝
  統的に、生物的な本能からは少し離れて、理性とか理念に基づいて社会の流れに警告を
  発する役割を担ってきた側面があると思いますが、いま、そうした知識人の役割につい
  てはどう思われますか。

吉本隆明は、「自然と倫理」との関係性について、天然自然というものと倫理や善悪が結び
つくところがあるとすれば、そこはどうなっているんだ、という問題の立て方をすると次の
ように答える。

  ぼく自身、ナショナリスティックな部分をたくさんもっていて、スポーツでいえば、ボ
  クシングでもサ
ッカーでも何でも構いませんが、気がつくとひとりでに日本を応援して
  いるということがよくあります。おっしやるとおり、動物としての人間というふうに考
  えれ
ば、人間もほかの動物とそんなに懸け離れているわけがないから、利己的な遺伝子
  の過
程にあるのだという考え方が成り立つと思います。ただしぼくは、そういう言葉は
  使わ
ないで、それが「生物的自然」だといっています。現在までの人間の遺伝子や地域
  的特
性、あるいは風俗習慣などから見て、スポーツであれ何であれ、地域社会の人を応
  援してしま
うのはきわめて自然だという意昧にもなります。もっとも、人間も動物もそ
  う懸け離
れているわけではないといってしまうと、そうだよなあとなって、そのあとが続かない。
   だからぼくは、強いてそういう言い方をしないようにして、それは自然と倫理の問題だ
  とか、善悪の問題だとか、そういう言い方をするようにしています。だから、
現在まで
  の段階だったらナショナリズムは当然だということになりますし、ナショナリズム以外
  のことをいう
人間はみなどこかで人工的にごまかしているか、あるいは知識人的にいってい
   るか、理性なるものだけを取り出していっているか、そ のどれかだということになります
。ぼくが
  よく付き合った詩人の谷川雁などは、「もし黒人と白人と黄色人がボクシングの選手権
  を争っていたら、絶対におれは黒人を応援するな」といっていました。そして、「日本
  人と白人が戦っていたら、もちろん日本人を応援する」と続けていましたけれども、そ
  ういう谷川雁の言い方には人為的な「何か」が入っているわけです。その「何か」とい
  うのはわかっていて、大きくいえば理性が
入っている。あるいは知識、見識が入っている。
   もっと小さくいえば、政治性が入っているし、党派性が入っている。でもぼくは、これ
  から先のこ
と、つまり未来のことを考えたいものですから、「人間と動物」といった言
  い方や党派的な言い方はしないで、むしろ「自然と倫理」といった言い方をしたいと思
  っています。それはどういう意味かといえば、先に三木成夫さんや安藤昌益のことをし
  やべったときにいいましたように、天然自然というものと倫理や善悪が結びつくところ
  がある とすれば、そこはどうなっているんだ、という問題の立て方
をしたいということ
  です。

それを受け答えるように、茂木は、ドーキンス自身、生物学的な、言い換えれば進化論的な
議論がすべてではないと考えています。『利己的な遺伝子』のなかでは、「そもそも人間が
種自身の
自己保存を図るということでさえ自明ではないのだ」と引用し、種の自己保存は自
明ではないことを認めるが、これに対し吉本は、社会・政治問題となっている「格差社会」
という言葉を引き合にだし、ふつう政治家は政治意識、社会運動家は社会意識を第一の問題
として、それに対してどういう対策をとるかという発想をするわけですが、それではダメな
んで、自己意識を社会化することが正しい問題解決なんだと説くが(「第四章 自己意識を
社会化す
るとはどういうことか」)、ここのところが、デヴィッド・ハーヴェイの考えと真
正面に異なるように思える点であり、あるいはに対する運動論の創意工夫・論考の深耕の是
非が問われると考える。この「自己意識を社会化する」ということが二つめの問題提起だ。


  こうした問題を政治問題や社会問題に広げるとします。そして、いまの政党はどんなこ
  とをいう だろうかと考えてみると、このごろは「格差社会」という言葉が流行してい
  ますから、た
とえば「格差社会の状態がますます進行しつつある」というかもしれない。
  「だから、われわれの党はそこをなんとかしたいと思って格差是正をいつでも心がけて
  いる」というだろうと思いますが、ぼくはそれではダメだと思います。何かダメかとい
  うと、それは口先だけで、格差社会に押しつぶされている人をおれたちが救ってやろう、
 
といっているだけだからです。では、どうすればいいのか。そんなこと、おれに聞かれたってわか
   らないけど、少し考えていることはあります。それは、自己意識を社会化するところへいかない
   とダメなんじやないかということです。ふつう政治家は政治意識、社会運動家は社会意
  識を第一の問題として、それに対してどういう対策をとるかという発想をするわけです
  が、それではダメなんです。やっぱり、自己意識に入ってくるさまざまな否定や肯定、
  あるいはそんなことは想定できるわけがないよというような思い方、そういうものを全
  部ひっくるめた自己意識を社会化することが必要だと思います。そういう姿勢を政治家

  がとってくれれば、少しは可能性があるといえるわけですが、おそらくなかなかそうは
  ならないでしょう。自己意識を社会化するとはどういうことか、ということをもう少しいってみ
   れば、自分のたずさわっている領域、文学なら文学、脳科学なら脳科学の領域で感じて
  いることをできるだけ広げようとすること、それも実感から離れないで広げていくこと
  です
。これを言い換えれば、ただのっぺらぼうな社会意識なんて、そんなものは初
めか
   らないよ、というその意味で面白いと思ったのは、小泉純一郎が「おれは(総理として
  の)退職
金をもらわないことにするから、全国の知事さんや市長さんたちも退職金を辞
  退したらどうだろうか」といったことです。あれは結構いいことです。総理大臣も全国
  の知事や市長も退職金を返上すれば、リストラされた人の何十人か何百人かは、生
活上
   一年間ぐらい延命できます。けっして悪い発想ではないし、しかも保守政府の責任者がそういう
   ことをいったから、ぽくなんか、おお、小泉って時々いいこというじやないかと思いました。本来
   の保守的な政治家だったら、「そんなことは構うことはないんだ」と、そういうに決まっています。
   しかるべき地位にいるわけだから、知事だったら数千万円とか、総理大臣だったら一億円とか、
   それぐらいの額の退職金はもらえるわけで、「退職金を返上する」なんて言い出すはず
  がない。
ところが小泉純一郎みたいな人は半分素人だから平気でそういうことを言い出
  すわけで、こう
いうふうに、それぞれの人がそれぞれの専門領域で感じている自己意識
  を社会化するやり方に通路をつけられれば、それがいちばんいいことだと思います。通
  路をつけるためには、単に社会意識というものがここにあって、政治意識はあそこにあ
  って、それから文学みたいに内向的なものは内向的なところにあって……と、そういう
  ふうに個別的に考えていてはダメだと思います
。ぼくらだったら、自分の職業にしていること
   になります。文学の領域で感じている問題意識や経験的なものを政治化したり社会化し
  たりする。文学にたずさわりながら体験したり実感したりしたものをひねくりまわし、
  そのひねくりまわしたものから類推して何か思い当たったことをいったり書いたりする。
  さしあたってはそうやって通路をつくっていく問題だと思います。もっとも、われなが
  ら「自己意識を社会化する」とか「自己意識を政治化する」というのはあまりいい言い
  方ではないと思います。そんな言い方では、「いったい、おまえは何をいっているんだ」
  といわれそうですが、ぼくがいいたいのはそういうことです。

最後の三つめの問題提起が、「科学技術の使い方が問題になっている-古典的知識性は淘汰
されたか」である。
                      

  科学の発達はちょっと止まりようがないからどこまでいくか、ぼくなんか、もうキリが
  なくいきそうな気がします。そうだすると、古典的な知識では片づかない。ぼくはまた
  社会的なことと結びつけて考えるわけですが、昔は資本が剰余価値を生み出すから、資
  本家はそれを自分の利益として、働く人には部分的にしか与えなかった。それがもう少
  し発達すると、今度は国家が資本を独占して国家独占の資本主義になっていく。こうい
  う言い方で済んできたけれども、いまはそういう考え方では済まないぞという感じがし
  ます。どういうことかといえば、何か権力的なものが介入してくると怪しげな方向にい
  ってしまうということではなく、文化とか文明の発達に役立つような装置があれば、そ
  れをだれがどう使おうと、それ自体が権力なんだというふうに変わってきていると思う
 
のです。そう考えたほうがいいのではないか。いや、そういうことを考えに入
れなかっ
   たらダメじやないかと思います。ただし、権力といっても、それは昔のような強権という意味では
   なくて、要するに人が精神的にでも肉体的にでも外界に働きかければ外界が価値化してしまう
  から、人文系の文化であっても科学技術と結びつく場面があれば、必ずそれは権力化す
  る。そ
のもの自体が権力になっていくということです。それにしろ、それはもう善悪の
  問題、倫理の問
題ではなく、文化自体か権力だとか、文化が科学技術と結びつくかぎり
  権力化すると考えるべ
きではないでしょうか。ここのところは用心のしどころです。だ
  から、資本主義の科学技術だけかおかしいのかというと、それはそうではなくて、資本
  主義であれ社会主義であれ、科学技術の使い方自体が問題になっているのだというべき
  でしょう。いまのような使い方をしていると、自分では獲得したのが知識そのものであ
  るかのように思っていても、じつはそうではなくて権力だったというふうになっていく
  はずです。

以上、「人類は根拠のないタブーをつくらないと済まない」「自己意識を社会化する」「科
学技術の使い方が問題になっている」の三つの問題提起は、デヴィッド・ハーヴェイが想定
する内容と深く関係することであり、局面では真っ向から対立問題をも含んでいるように思
える。それはどこからくるのか、「恣意的自由の拡大」(大道無門)に象徴されるポストフ
ォーディズムへの親和性、そのことはまた、新自由主義の誕生の基礎的な歴史的な背景ある
いは社会的基盤として、すぐさま全否定へとは向かわないことの暗黙の了解事項のことのよ
うに思える。そのことを踏まえ、サブプライム・リーマンショックに現れた英米金融資
本主
義の破綻、地理学的不均衡を伴いつつも、世界的規模で進行する資本の収奪あるいはその結果と
しての所得格差の拡大などにあらわれている抑圧とその解放方法について、あらゆるタブーを排除
しつつ考察を進めていく。

 

【経路依存性】

技術進歩と経済学のアプローチ

ここからは、主に経済についていわゆる経済学の流れについて、香西泰(1997年当時、日本
経済研究センター理事長)の講演『日本産業の新秩序』をもとに考えてみる。

これまで経済学では、技術を直接扱わずに生産関数を媒介とし、投入と産出の関係にのみ絞
って問題を考えてきた。投入や産出は具体的な数値であり、容易に操作できるため、技術知
らずのエコノミストも、こうして技術進歩を議論することができた。新古典派の秩序とは、
投入産出における代替関係や限界生産力逓減の結果、市場に均衡が存在し、その中で価格メ
カニズムが有効に働くことを前提にしたものだ。このような秩序は、比較的小規模の工場で
親方と職人がいる組織(イングリッシュモデルとかイングリッシュシステム)に対応したも

のであり、まさに19世紀末、アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall)の教科書でイ
メージされた組織だが、時代とともに、新古典派モデルは実態と乖離しはじめてくる。この
新古典派モデルに対する批判として、ガルブレイス(John K.Galbraith)の新産業国家論が
でてくる。経営と資本とが分離した大企業において、経営者は独立したテクノクラートとな
り、独自の長期計画をたて成長追求する。また、大企業は自己金融と管理価格によって市場
をコントロールすることができるようになる。これは、19世紀末から20世紀に成立したフォ
ードシステム(アメリカンシステム)のような寡占企業による大量生産システムに対応した
ものだが、しかしながら、ピーター・ドラッカー(Peter F.Drucker)は、自己安定的テク
ノストラクチャーという仮定に対して批判を展開した1970年代を境に、大企業による寡占体
制は現実に合わなくなった。ベンチャーキャピタルや資本市場の役割が大きくなり、一種の
ゲリラが大企業を餌食とする。そういう現象が、産業界に続出してきたからであり、あたか
もベトナム戦争で、非常に近代化されたアメリカの大軍が、ゲリラに敗退せざるをえなかっ
ように。

新古典派モデルや、寡占体制モデルに対して、新しい考え方が生まれその一つは、ブライア
ン・アーサー(W.Brian Arthur)を代表とする複雑系の経済学であり、彼の著作である"In-

creasing Returns and Path Dependency in the Economy"(1994)における主要なアイデア
は、収穫逓増と経路依存性の2点であった。実はこの複雑系という考え方にわたしが初めて
触れたのは、東京大学公開講座『混沌』、東京大学出版会であり、後で掲載する『複雑系と
経路依存性』で登場する塩沢由典が「複雑系経済学は、基本的には日本で始まった経済学で
ある」と指摘している通り、経済学として体裁を整えてくるのは90年代半ばよりであるが、
従来の経済学では、収穫逓増は異常な現象であった。つまり、収穫逓減でなければ均衡は存
在しない。もし収穫逓増なら、生産は拡大しやがて独占状態になる。その結果、市場経済は
機能しなくなる。しかし、アーサーは、現在の経済社会では収穫逓増の方が、むしろ普遍的
であると主張。

また経路依存性は、どの均衡へ収束するか、その経路途中の小さな事象(スモールイベント
)、偶然に支配されるとし、そのスモールイベントの積み重ねの結果、ある均衡へ収束する
という考えにあり、従来理論の最初から合理的にある均衡へ収束するわけではなく、均衡が
最も合理的か否かも分からないと考える。この立場は、ポール・クルーグマン(Paul R.
Krugman)の産業立地論の、当初の立地は偶然の要因が非常に大きいが、そこである産業が
発達すると、そこに次の産業が興り、集積の利益が発生するとクルーグマンも考える 。また、

収穫逓増とか経路依存性という考え方は、例えば費用逓減(収穫逓増と同義)という考えは
村上泰亮の『反古典の政治経済学』(1992)におけるキーコンセプトであり、収穫逓増を無
視し、新古典派パラダイムに固執していれば、開発政策の意味を見失ってしまうと指摘して
いる。さらに経路依存性は、青木昌彦と奥野正寛『経済システムの比較制度分析』(1996)
におけるひとつのテーマであり、選択の過程で物事は決まっていくのであり、あらかじめ均
衡が存在するのではないと説く。さらにここでは、「補完性」という概念を提起する。みん
なが右を歩くなら右を歩いたほうが得だという戦略的補完性や、どこかで終身雇用が始まる
と、転職は不利になるためやがて経済全体が終身雇用になってしまうという制度的補完性で
ある。補完性という概念は、複雑系の考え方と非常に近い。


日本の経済学者たちが、これらの概念に早くから注目していた背景には、フォードシステム

に対抗するトヨタシステムという生産システムの理解に有効だったという理由があり、終身
雇用とメインバンク制との間に補完性が生まれ、ひとつのシステムができあがり、単純な経
済学の教科書における均衡モデルとは異なった日本のシステムの一種独自性があった。ま
た、
それと関連するようにデファクト・スタンダードも、経路依存性や補完性があり、タイ
プライターの文字配列がよく引用されるように、最も合理的配列というわけではないが、タ
イプライターの設計上の必然性が、デファクト・スタンダードに化けた結果、ある種の安定
性を確保したと考えられているが(仮にこの文字配列が、非合理的なら、別のシステムが登
場していたはずである)、偶然どちらかになったのは、サイコロで決めて良いような問題と

考えられたし、また、VHSとベータの競争も、技術的に絶対な優位差がない故にの結果になっ
たと考える。その選択の質は、ソースか醤油かということではなく、醤油の薄口か濃い口か
の差異に
その必然性が由来すると喩えられようなものであるが、決定的に優れている場合で
も、そうでない方
が結果的に選ばれることもありうるということは、前述した吉本隆明の実
例のような「タブーの種」で
ある土俗的な類に似ている。

※ごくささいな「歴史的な偶然」(historical accident)(初期設定条件)によって、技術
の普及経路(path)が後世まで決定されること。依存性(dependence)とは、別の道を選べられ
なくなることの意味。またこうした普及現象については、「同じ規格や技術を使っている人
が多いほどその効用が増す」というポジティブ・フィードバックが働き、さらに、いくら他
の技術が効率的に優れていても、現在の方式を捨てて適応するためのスイッチングコストが
かかる。そのため、ある程度の普及率(クリティカル・マス)を超えると、デファクト・ス
タンダードの地位を確立するという「ロックイン現象(偶然に過ぎないものが不動になるこ
と)」が生じやすい。

さらに、興味深い議論として、ウィナー・テイク・オール(Winner-take-all)がある。スピ
ードが競争の要な要素となった結果、これまでならば2番手、3番手でも結構やっていけた
ものが、瞬時に勝負がつき勝者がその利益を全てを取ってしまうことがありえる。このため、
新古典派は完全競争を念頭に置き、ガルブレイスはある種の固定的な寡占を考え、それに対
し、収穫逓増や経路依存性のモデルでは寡占化していく過程が描かれた。このウィナー・テ
イク・オール型には、瞬間的な独占形成がイメージされるが、ウィナー・テイク・オールで
ひとたび独占状態が成立しても、急速な技術革新の中では新たな競争が次々と発生し、次の
競争では敗者となる可能性もあり、ここでの独占は安定的ではないといものだ。このように
、経済学者が、全く現実を見てなくはなく新しい考え方を問題提起しアプローチしてきたが
、これまでみてきた様々なモデルで日本産業の新秩序を十分描ききれなかった。例えば日本
経済の高コスト問題で、伊丹敬之は日本の文化特性由来の、問題を指摘していが、なぜ日本
企業はオーバースペックになるのだろうかと。文化的要因ではなく、決定的なことは日本の
設計技術が弱く、そうならざるえないというが、そうであるなら、データの互換性が進展す
る中で、企業内技術・熟練などへの評価が変化する可能性があり、品質引責がとれる信頼で
きるとして評価されてきたものが、ある種の過剰な独占利潤の消費のあり方であり、設計も
オープンなものではないと(自惚れ・消費者不在・マニアック)、批判されることにもなる
ことは-液晶家電競争のシャープ・ソニー対韓国・中国系企業の例のような結果となり、各
モデルによって、その評価が大きく違ってくるように、同様に日本産業のシステムを評価す
るにも、全く反対の評価が下されることがあり、次の3点を考慮することが重要だと指摘さ
れている。

1.まず、独占に対する考え方:ウィナー・テイク・オールや、収穫逓増では市場は独占に
到るが、その独占とは不安定なものであり、またいわゆる独占資本とは異なったシュムペー
ター(Joseph A.Schumpeter
)流の創業者独占である。今後独占を考えるにあたって、競争に
対立する独占という発想は改める
必要がある。


2.理論モデルの適用範囲についての注意:産業ごとに適した生産システムは異なるであろ
う。ポ
ーター(Michael E.Porter)が主張するように競争優位の観点からのシステム評価も
必要である。
アウトソーシングとホームメードとの間は完全な代替関係にあるのではなく、
バランスをとった補完関
係にあるのではないか。そのバランスを見極める必要が、今後ます
ます高まる。

3.所得分配の問題:例えば、日本は所得分配が平等だという考え方が存在する一方で、能
力を正
当に評価しない結果としての平等であるという評価もある。低所得の間は平等が要請
されても、ある
程度の生活水準が達成されたあとは、むしろ所得格差が存在する方が正常で
はないか。また真逆逆
格差拡大による景気停滞も同様にこの問題は、様々なモデルを通じて
多角的に評価されなければな
らないだろう。

今、日本で起きている大きな技術革新や環境変化の中で、どういう形で安定性とリスクテー
キングの
バランスを取っていくのか。つまり、所得の平等と経済発展との間のポートフォリ
オセレクションをどの
ようにつけていくのか。今後このことが、新しい産業秩序の決定的な
要素として、ますます重要になっ
ていく。

                                                    この項つづく

 

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