極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ポストケイジアンのシャンペン

2013年03月11日 | デジタル革命渦論

 

 

 

     

この間の沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」の続き。映画『カサブランカ』。主人公のハン
フリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの共演はに暫し、郷愁にひたる。第2次世界大戦
の真っただ中に作られた映画だが今観ても全然古さを感じさせない(が、二度と戻らない時間)。

ところで、リック(ハンフリー・ボガート)の部屋でシャンパンを開けながら、謎の女性イルザ
に尋ねる。「君はいったい何者? いままで何をしていた?」「聞かない約束よ!」パリのクラ
ブ「オーロラ」でピアノ弾き、サムの。時の過ぎゆくままを聴きながら、くわえタバコのリック
ぱお気に入りのシャンパンのコルクを抜く。「どんどん飲めとさ。ドイツ人にシャンパンをやる
のはシャクだから」サムが答える。「ちょっとは憂さを晴らせまますよ」とイルザにグラスを差
し出しながら、リックがささやく。「君の瞳に乾杯(Here’s to looking at you, kid)」
この時、リックが手にしていたシヤンパンはマム社の「コルドン・ルージュ・ブリュット」だっ
た。

 

 


 

  

 


【草稿 新自由主義からデジタル・ケイジアンへの道

市場経済の進歩・発展を駆動するものが競争にあることは、ほとんどすべての経済学者が一致し
て認めるが、市場経済における競争がいかなる場所でいかなる具合になされるかについて、新古
典派と複雑系経済学とでは、大きな見解の隔たりがある。その原因は、新古典派経済学が「価
格理論」とほぼ同じ範疇に存在しているため、競争に関する理論的な説明は、ほぼ価格競争とし
て説明される。完全競争、純粋競争といった概念が価格を軸としていため、これが競争の実態を
大きくゆがめていると指摘される。塩沢由典(『複雑系経済学の現在』)によれば、新古典派理
論の競争概念をゆがめているのは、需給均衡という考え方にあり、より正確には、価格を独立変
数とする需要と供給とが定義され、それらが一致する価格体系に市場が帰着するという一般均衡
理論の枠組みが成立した古典派や新古典派の初期にその根拠があるという。経済の調整変数とし
て、ひとびとの目に見えていたもの(=信用
)は価格のみであったとし、数量的な調整は、部分
的にできたとしても、その全体的な変動を推定することの困難さがあった。そこで目に見える調
整過程として、価格による調整に焦点が絞られ上に、さらに、需給均衡の枠組みが「企業は市場
で自社製品を売りたいだけ売っている」(行動に関する最大化原理と状況の選択原理としての均
衡概念)という前提により現実から遊離すると。この反省に立ち、「複雑な状況の中での行動」
を主題とし、均衡分析に代わる過程分析という枠組み経済学のすべてを、複雑系経済は再構
成し、均衡の枠組みには理論として組み込めないの状況(収穫逓増、定型行動、追随的調整、経
路依存など)を包括する。

さらに、複雑系経済学は、基本的には時間の流れの中で諸変数の変化を追跡する分析であり、新
古典派のように「売りたいだけ売っている」という前提は不要として退け、反対に近代的企業
の生産の増大を制約している主要な要因は、市場における需要の制約にあると考え、ケインズ経
済学の根底に置かれるべき考えだったとする。つまり、
ケインズの一般理論は、限界理論の2公
準を軸としているが、有効需要の原理とうまく整合せず、第2公準を否定することから始まり、、
ケインズ経済学をミクロ的に基礎付ける試みが長くなされてきたが、企業が直面している状況を
ただしく定義できなかった。生産量と利潤を増大させようとする企業の主要な制約が製品の売れ
行きにあり、需給均衡という枠組みは、その定式においてこの状況を排除する。したがって、マ
クロ経済学のミクロ的基礎付けには、基礎的なミクロ経済学の枠組みを変える必要であり(また、
新古典派理論に基づきマクロ経済学を再構成しようとしても、理論の構造として不可能)、
ケイ
ンズ経済学は、しばしば、価格が固定的であるとの前提にたって説明され、価格調整がつねに瞬
時になされる世界では有効需要の原理は意義をもたない製品価格を下げようと、原価をまかな
える範囲では、その値下げ幅は大きなものでなく、原価を割らない範囲でどんな価格を付けよう
と、企業はほとんどつねに需要の制約に直面し、企業レベルで捉えられた有効需要の原理である。

生産容量の変更をのぞけば、価格調節の間隔は一般に数量調節の間隔より長い。そのため、価格
が固定的であるかの印象を一部に与えているが、価格が変動する世界においても、有効需要の原
理はつねに生きている。有効需要の原理は、マクロ経済においてのみ出現するものであるかの説
明もあるが、それは新古典派ミクロ経済学を前提としているからである。需給均衡の枠組みを離
れてみれば、マクロの有効需要の原理は、個別企業が直面している状況の統合された表現でしか
ないとする

  

これに対し、ケインズ経済学、とりわけポスト・ケインジアンはどのような立ち位置にあるのだ
ろうか。例えば、サミュエルソンなどがリードした新古典派総合も加わるであろうし、実際にか
れらは自分たちをケインジアンと思っている。では何が真のポスト・ケインジアンと「バスター
ド(まがいもの)」を区別する点なのか?

まず、(1)経済の全体的な枠組みを完全雇用を前提に対し、ケインズとポスト・ケインジアン
は、非自発的失業は資本制経済ではふつうに起こりうるとし、経済の活動水準を決める要因は、
将来が不確実な下での企業の投資決意、投機筋の「強気」や「弱気」、企業の財務構成、中央銀
行の金融政策など、きわめて多面的で有機的と考える。つぎに(2)教科書的な貨幣供給の外生
性と流動性選好理論を中心とする貨幣需要の組合せに代わるものとして、金融動機を介在させた
景気と貨幣供給の内生性の関係が議論され、企業の投資と財務構造の変化をヘッジ、スペキュレ
イティヴ、ポンチの三段階で説明し、景気との関連を検討するケインズ的ミンスキー理論もある。
(3)ケインズ自身はレッセ・フェールが失業を解決できない原因を主に貨幣的側面に見たが、
分配や産業間の技術関係など、もっと実物的観点から社会的・構造的問題に取り組んだスラッフ
ィアン、オリカーディアン-スラッフィアンの多部門生産理論の特徴は線型の生産構造にある。
 『一般理論』出版から70年以上経た今日、正統派からは無視された感すらあったケインズは、
今回の金融恐慌で図らずも完全復活しているとされるが、複雑系経済学(あるいは進化経済学)
と相互浸潤(なんともレーニンばりの表現だが、多分に現代的なデジタル物理学の反映をもって)
する状態下にある。このように、経済システム特性として複雑系の前提を箇条書きすれば、以下
の三つのシステムの時間変化・連結・構成個体の生存に関する条件が組み込まれつつあるとでも
表現できようか。

(1)時間特性 経済の状況は、ゆらぎのある定常過程としてある(ゆらぎ)。
(2)連結特性 経済の諸変数は、緩く連結されている(ゆるみ)。
(3)個体特性 経済の個体(主体)は、生存のゆとりを持っている(ゆとり)。

さきを急ごう。以上のようなことを踏まえ、経済過程がもつさまざまな特質を組み込み、経済学
の諸問題に有益な示唆を与えるような分析方法が求められているが、定型行動のレパートリーを
もち、ミクロ・マクロ・ループの存在に矛盾しない分析ツールとしてエージェント・ベースのモ
デル分析が該当すると塩沢由典は紹介しその理由を次のように挙げる。

1、プログラム行動:エージェントの行動は、プログラムで書かれている。モデル分析では、多
  数のエージェントの相互作用を問題にするから、個々のエージェントの行動様式として、計
  算負荷のかかる最大化計算などは通常は組み込まれない。比較的簡単なプログラムで書かれ
  た定型的な行動が採用されている。意識しなくても、おのずと合理性の限界が考慮される。

2、
異質なエージェント:異なる特性もつエージェントの相互作用を数学的方法によって分析す
  ることは容易ではない。方程式は多次元のものとなり、均衡などの特異点を除いて解析はほ
  とんど不可能である。コンピュータをもちいる分析では、多様なエージェントを組みこむこ
  と、それらの相互作用を追跡することは難しいことではない。

3,
過程分析:コンピュータを用いて時間経過を追うことは簡単である。プログラムを組む上で
  は、諸変数の決定関係は明瞭であり、循環的な因果関係は排除される。分岐やそれに基づく
  構造化も、時間ステップを追う分析では、特別な困難なく実行できる。

4,行動の進化:ホランドの遺伝的アルゴリズムは、突然変異と交差の二つの操作により、クラ
  シファイヤーを進化させている。行動の基本形は、クラシファイヤーと同型であり、行動の
  進化をモデル内に取り込むことは可能である。こういう枠組みの中でなければ、行動と状況
  とのミクロ・マクロ・ループを観察することはできない。

5,
ストーリー分析:与件に適切な変化をもたせることにより、時系列にストーリーを持たせる
  ことが可能である。

6,
多層的調整:変数の変化するリズムを適切に与えることにより、諸変数の多層的な調整を組
  込むことができる。

7,制度の比較研究:複数の代替的制度があるとき、同じ条件下でそれぞれの制度がどのような
  結果をもたらすか比較できる。

しかし、問題もある。結果として得られる時系列があまりに多様で、そこからどのような意味を
汲み取るかが容易でないことだ。エージェント・ベース・モデルの実験に対する批判に「ヤッコ
ー」というものがあり、「やってみたら、こうなった」という結果は容易に出てくるが、その結
果からいくらかでも経済について理解を深める知見が生まれているのか、という疑問。もし得ら
れた結果がなんら新しい知見や理解をもたらすものでないなら、エージェント・ベースのモデル
分析は意味をなさない。これについては経験も、知識もないのでなんとも言えないが、わたし(
たち)の仲間には、理数系に長けたものもいるので相談してみることにして、今夜はとりあえず
この辺で。

                                    この項つづく
 

 

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