今宮神社(京都市北区紫野今宮町21)の東門入ってすぐに神馬舎
小さなお社ぎりぎりの白馬がカワイイ。
神橋左側 手水舎後ろに
宗像社
台座になまずの彫り物
だからお守り授与所に 姫なまずのストラップあったのね。
あぶり餅やさんは東門前にあり、北大路通りの楼門から左側
青の星印のところに宗像社がありました。
三階松紋には、松ぼっくりが付いてるし、下に桜の花も描かれてるそうで珍しい。
謂れはまだ調査中。
本社前には円錐に積み上げた砂の山が二つ。
上賀茂神社と同じ、たしか神が降臨するところ、でしたっけ?
【本社】
中御座 大己貴命(おおなむちのみこと)
東御座 事代主命(ことしろぬしのみこと)
西御座 奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)
【摂社】
疫社 素盞鳴命(すさのをのみこと)
あぶり餅メインで初めての参拝、
境内社もいっぱいあってすべての神様にご挨拶できなかった。
神橋渡って、すぐ目の前に鳥居があり石段が上に続く一番高いところの神様にご挨拶行けなかったのが気になってます。
どなただろうと帰ってから境内図で、
月読社と確認。
今から思えば、あの白馬は月読命の跨る神馬かも・・・
平安時代半ば、疫病が蔓延した。
994年、もともと今宮神社に鎮座した疫神を二基の神輿に齋いこめて
船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。
これが
紫野御霊会であり今宮祭の起源。
1001年、ご霊夢によって疫神は
船岡山から再び現在の当社地に奉遷され、新たに設けられた神殿三宇ともども今宮社と名づけられた。これが今宮神社の起源。
古いお宮にたいして今宮ですが、もともと古宮には疫神のスサノオ命だけでなくツキヨミ命もおられて、疫神だけが行ったり戻ったりされたのではないでしょうか。
だって境内の一番高いところだもの。
船岡山、今宮神社の位置を地図で確認してみましょう。
参照
平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。
平安京の大内裏の真北ですね。
東側の東山には
八坂神社、もと祇園社があります。
西側は、地図でたどると、梅宮大社とか松尾大社とか?
10世紀に慶滋保胤の記した『池亭記』には、
「西京(右京)は人家いよいよまれにして ほとんど幽墟にちかし」と書かれているそうです。
大内裏の焼失に並行して右京も荒廃し、本来禁止されていた農地へと転用されることすらあったようです。
では南側はというと、朱雀大路の端に羅生門を挟んで東寺と西寺。
現代では東寺しかありません。
西寺は存在した! ~何故、東寺は栄え、西寺は衰退したのか
へぇ~ 知らなかった歴史、
さすが千年の都、京都ですね。
794年 鳴くよウグイス平安京
秦氏は、長岡京と平安京の造営にあたり、その一族の財力を上げて取り組んだ。
一族のシンボル的存在であった秦河勝の屋敷を大内裏として寄進した
村上天皇(946年~967年在位)の日記には、「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」とある。
大内裏にある右近の橘は、河勝の屋敷の庭にあったものであった。
詳しくは→
平安京と秦氏
(高校生のためのおもしろ歴史教室)
今度はあぶり餅おまけで、参拝メイン、じっくりフィールド調査いこう。
不思議いっぱいの今宮神社でした。
ご参考までに
高野川、加茂川、桂川の流れをかえ整備して豊かな京都盆地を作り上げた秦氏。
603年 秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺が
広隆寺。
国宝指定第1号の弥勒菩薩像です。
京都市右京区太秦にあり、宗派は真言宗系単立。
山号を蜂岡山と称し、蜂岡寺・秦公寺(はたのきみでら)・太秦寺などの別称あり。
過去ログのご紹介、よかったら
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京都嵐山1dayチケットで損した話
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弥勒菩薩と如意輪観音