大阪市立美術館の木像展覧会で、展示室を移動するスペースに標本木が置いてありました。
たいていの日本人は木が好きで、今度の2020五輪メインスタジアムだってコンセプトは「木と緑のスタジアム」
にもかかわらず、この木何の木状態で、樹形などから木名を確定できる人は多くない。
ましてや木肌となればもっと?
へぇ~と眺めましたが、板を見せられて名前を当てろといわれても無理。
情報がしみこむにはもっと木に触れ合う生活が必要ですね。
縄文時代の遺跡から出土したもので、住居はカシ・ヒノキ・クリ・シイなどがみられ、木の器には削りやすいトチノキ、弓には固くてしなるカシと上手に使い分けていたのがわかっています。
また日本書紀の記述で、スサノオノミコトは、「スギとクスノキは舟に、ヒノキは宮殿に、マキは棺に使いなさい。そのためにはたくさんの木の種をみんなでまこう」と教えられたと。
展示物に戻りますと
飛鳥仏
木造 菩薩立像
飛鳥時代(7世紀)
東京国立博物館
明治以前の来歴、どこの寺に伝来したものかは不明です。
日本列島に仏教が伝わった飛鳥時代(7世紀)にさかのぼる希少な木彫仏で、クスノキ材の一木造りです。現存作例と文献資料による限り、
飛鳥時代の木彫仏はすべてクスノキで造られました。
この時代には青銅製の作品が多く木彫りは珍しい。
作者 円空
木造 十一面観音菩薩立像
江戸時代(17世紀)
ヒノキの一木造だそうです。
この画像やっと拾えたのは→
こちらのブログ
埼玉県蓮田市の神職家に伝わったもので、神仏混交の頃の修験道信仰との関係で、円空が作品を残したのではないかと考えられています。
イヤホンガイドの説明で、十一面観音像は白檀の木で造るということが書かれてあると聞きました。
で調べてみると、
海住山寺のサイトで
「像高は45,6㎝。これに近い大きさの十一面観音像がいくつか見出せる。東京国立博物館像42,1㎝、山口・神福寺像44,7㎝(頂上仏面欠)、奈良国立博物館像42,8㎝、大阪・長円寺像45,0㎝、三重・白山町像47,6㎝、高知・竹林寺像48,8㎝などである。
このように近い像高の作例が多く見出せる理由としては、
十一面観音経典に、
像は白檀で「一ケツ手半」の大きさに造れと説くことと関係するものであろう。これらは、小檀像と呼ばれている。」
ところが日本では白檀は生育しないので、他の木が用いられたのです。
円空さんの作品は二つ展示されてありました。
円空はその生涯に十万体以上もの仏像を彫ったとされる江戸時代前期の仏師。
円空仏は素朴で潔い刀法から生み出される独特の雰囲気が大きな特徴で、それまでの仏像の歴史とは隔絶した存在感を示します。
これは用材の特徴をしっかりと把握した職人芸のなせる業でもありました。
ほっこり穏やかなお顔の仏像が多い中、異質だったのが
円空作
木造 秋葉権現三尊像
江戸時代(17世紀)
秋葉権現三尊像もヒノキで、一材を縦に三分割してそれぞれの姿を彫りだしたもの。
埼玉県指定文化財 蓮田市個人蔵:
矢島家所蔵
Wikiをみますと
秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治2年12月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。
真言
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
「ヒラ」とは愛宕山太郎坊の前身とされる日羅の名前を本来の「にちら」ではなく「ひら」と読み変えたものであるとされる
秋葉講
江戸時代の庶民にとって遠州秋葉参りの旅費は経済的負担が大きかったので、秋葉講という宗教的な互助組織(講)を結成して講金を積み立て、交代で選出された代参者が代表として遠州秋葉山に参詣し、火防せ・安全を祈願して帰郷した。
また、遠州秋葉参りできない人々を考慮して、地元に秋葉権現を勧請した。秋葉講の講社の数は、盛時には全国で3万余を数えるほどあった。
秋葉権現とは何かがとてもよくわかるブログ→
こちら