秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

菅浦の須賀神社は裸足で参拝

2019-09-05 | おでかけ・近畿


須賀神社の長い坂の石畳参道の先に階段があるので
そこから先は土足厳禁。
部外者用にスリッパ用意されてます。


上の拝殿、本殿後ろに舟形古墳があり、淳仁天皇が葬られているとのこと。

上から階段参道見おろすと


わずか15分ほどの参拝時間でしたが、
靴を脱ぐって初体験。

淳仁天皇の伝説
菅浦には淳仁天皇の伝説がある。
淳仁天皇は、天步天皇の皇子・舎人親王の第7皇子で大炊王と呼ばれていたが、
天平宝字2年(758年)藤原仲麻呂(恵美押勝)に擁立され孝謙天皇から譲位を受け即位した。
しかし、天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱により廃帝され淡路国に流されその地で亡くなったとされている。
ところが菅浦には、淳仁天皇は淡路国ではなく菅浦に流されたという伝説がある。
須賀神社に淳仁天皇が祭神として祭られており、神社の背後には淳仁天皇の墓と伝えられる墳墓がある。
なぜ、菅浦にこのような伝説があるのかは不明であるが、この伝説が菅浦の文化的景観に重要な意味を持つことからここに記しておく。
長浜市「菅浦の湖岸集落景観 」 PDFより引用

毎年4月8日はお祭りがあって、お神輿が渡御される。


ガイド男性の話によると、お神輿は3基あるが、担ぎ手の若者人口減って昨今は1基しか出てないとか。
もちろん村から出てる人も祭には帰郷する。
1トン近くある神輿は担ぐと肩は大きく腫れあがるとのこと。

そしてもっとびっくりしたのが、
淳仁天皇の1250年祭が2013年に挙行されてた。
その時の様子は ☞ 須賀神社 鎮座1250式年祭

一部画像拝借してきました





なんとこうした式年祭が50年ごと。
次の式年祭は1300年の2063年。
50年毎の御遷宮の維持には、お金も力もあらゆる面で負担がかることでしょう。


日常の暮らしには難儀そうなこの地で、
うちら大阪のおばちゃん4人は、絶対無理、ここではよう暮らさんな、と話した。

それがこうして綿々と受け継がれた歴史。
ふしぎ~

ちょっと面倒でしたが、国宝指定された菅浦文書をみてみることに。

つづく





菅浦集落見たまま聞いたまま

2019-09-05 | おでかけ・近畿

この石垣が、かつては琵琶湖湖岸の波除けでした。
救急車が通れる道を石垣下に造られた。
ガイドしてくださった男性は見た目50台半ばかな?
子どもの頃にこの石垣に腰掛けてる写真は白黒でした。



去年の台風21号の風は凄まじく、波除け石垣越えてあちこち被害出たそうだ。



山がギリギリまで迫った狭隘地は水があまり湧かない。
集落には三箇所の井戸が掘られ共同で使ってたそうだ。
そのうちの二箇所を案内されたけど、白濁して淀んでる感じ。

あの高島の安曇川伏流水地とは雲泥の差。
あちらでは澄んだ地下水が湧き上がりじゃーじゃー流れてた。

菅浦では水がないのでお風呂は琵琶湖。
冬はどうしてたのか聞き漏らした。
今は水道あるけど、水が無いとこは想像するだけでも大変。
私には住めないわ。



お寺の名前聞いたけど忘れました。
現在の人口は110人程度。
世帯数も100軒ないでしょう。
排他的な村だから人口減ることはあっても増加が難しい。
しかしお寺は4寺だったかしら?
宗派も異なるって不思議。



阿弥陀寺あたりかな?
ものすごく変わったアカマツのような木が目に留まった。
根元から枝が分かれて見たことないよ。


うつくしまつ、という名。
移植したようです。
何年に何処からか聞き漏らした。
昭和天皇が見に来られたとも言われたので、ネット検索したが不明。



小さな集落ですから村巡るのに30分も歩けば十分。

41人は2グループに分かれて見学した。
私たちのグループは最後に須賀神社参拝した。


須賀神社は、天平宝字8年(764)の創建と伝えられる。
祭神は、三柱を祀る
淳仁天皇(じゅんにんてんのう)
大山咋命(おおやまぐいのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)

元は、保良神社(菅浦大明神)と称していたが、
明治42年(1909)に小林神社、赤崎神社を合祀して一つの神社としたものである。


つづく