秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

国宝三十三間堂、正式には蓮華王院

2022-05-17 | おでかけ・近畿
京都ぶらり町歩き、最後に三十三間堂へ入りました。
ココは人生3回目です。
正式には蓮華王院という名と、今ごろ知りました。


14:52
この後入場して、堂内の千と一体の観音像や国宝の雷神風神像観ました。
写真なし。


15:28
裏側に出る、通し矢で有名なとこですね。

さすがにくたびれ果てて立ってられない。
縁石に腰下ろして説明も聞き流す中で、
「後白河院と平清盛の蜜月時代に、清盛が寄進した」と耳に留まる。


パンフレット書き写すと、
1164年鳥辺山麓の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一角に平清盛が造進した。



1156年保元の乱で、平清盛は後白河天皇側につき、
1160年平治の乱で、源義朝を破る。
絶頂期の1164年蓮華法院を造進したんですね。

清盛の父、忠盛は今の博多で、すでに日宋貿易を始めていた。
平家は宋からもたらされる珍しいものを朝廷や公家に贈って出世を勝ち取ったとも聞きました。
めっちゃ儲けてたんでしょね。
三十三間の煌びやかな観音像見てると、当時の栄華がさぞかしと偲ばれました。

それにしても、後白河院のええとこどりは凄すぎて。
ある意味世渡り上手の抜け目なさ。
日本一の大天狗と源義朝は見抜いてたのでしょう。


後白河院の手のひら返しと、法住寺殿

2022-05-17 | おでかけ・近畿
京都ぶらり町歩きで見聞きしたもの忘れないうちに。
大河ドラマで今話題の「日本一の大天狗」後白河上皇。

昼食後向かったのは法住寺で

左、朱色回廊塀が三十三間堂、
右側に赤く記した旗たってる所です。

5/15の『鎌倉殿の13人』第19話「果たせぬ凱旋」
後白河法皇を演じる西田敏行さんの怪演が光ってました。
先にココから書いておきます。

後白河上皇の院庁「法住寺殿」


並びに後白河天皇陵。


「頼朝は清盛になられては困るからの。そのための九郎よ」
「頼朝と義経、どちらかが力を持ってしまってはいかんのだ。わしが望んでいるのは、つばぜり合い」

相手方は勢力削ぐよう仲違いさせるのが手だと。
純朴な戦上手だけの義経はまんまと手のひらで転がされ…
かわいそうな結末へまっしぐら。


後白河院はなんとエゲツないおかただったのかがよく分かりましたね。

学生時代習った日本史で、藤原氏の栄華から武士の台頭へ。
平安末期になると登場人物わけわからんようになって、
保元の乱、平治の乱は入り乱れた人間関係で事件名しか覚えてなかった。


保元の乱 1156年
平治の乱 1160年

崇徳上皇VS後白河天皇 だけじゃなかったんだ。





皇族も貴族も公家も、そして源氏も平氏も、親兄弟、親族が両陣営に分かれて戦った骨肉の争いだったのですね。

崇徳上皇ー藤原頼長ー源為義と息子の源為朝ー平忠正(清盛の叔父)

後白河天皇ー藤原忠通ー源義朝(為義の長男)ー平清盛



     画像引用元 こちら


詳しくは

その後、保元の乱では仲間だった平清盛と源義朝が戦うのが平治の乱。
敗れた源氏は義朝は首を晒されるも、息子の頼朝は、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命された。
頼朝の生母が熱田大宮司家の出身であり、頼朝自身も熱田神宮で生を受けたことも遠因かもしれない。

このブログ内検索で「後白河」でみると12個もヒットしました。
そのうちの2つリンク貼っておきます。


後白河院は、天皇、上皇、法皇と時代により変わりますが、
自分で意識せずコピペの文中に含まれていることも多いのに驚きました。
まさにこのブログも後白河院の手のひらで転がされてたのかな。