蟹満寺本堂後ろのお地蔵さんピラミッドを写した道、
山背(やませ)古道というようですが、向かいに鳥居がありました。
昔の山背国の漢字ですね。
綺原座健伊那太比賣
知らんなぁ〜なんとよむんだろう。
初めて出逢ったひめ神さまです。
きはらにいますたていなだひめ
縮めて、綺原(かんばら)神社とも呼ばれます。
住所は、京都府木津川市山城町綺田山際16
地名では、綺田(かばた)のようです。
「綺原」は「カムハラ」「カンバラ」と読む説がある。 奈良時代に織物を生業とした綺一族の氏神という伝承がある。 木津川の支流天神川が山峡から平野部に出た地点の山麓に鎮座する。 蟹満寺の北接。 明治10年6月に式内社と決定されるまで梶原社と呼ばれていた、 梶原社の梶原は綺原の言い誤りであろう。近世に於ては綺田村の産土神。 |
綺原神社由来 ここに鎮座されます綺原神社は「大日本史」「日本書紀」「延喜式」にも 綺原座伊那太比売神社として記述されており 祭神は「タテイナダヒメ」とされタテは健康イナダは稲田で 達者で農耕にいそしめるよう祈願されたものだと考えられます。 ここの地名「綺田」はその昔、紙織または神織とも呼ばれ、 神に献ずる衣服を織る技術者及び養蚕技術者を祀った社とも言われており 綺氏一族(秦氏一族)の創起だと言われております。 現在は菅原道真公を祭神とする天神社及び八王子社をおまつりしております。 社頭掲示板 |
参道階段傍に立つ立看板は経年で薄くなりよく読めませんでした。
社名や地名で頭ぐるぐる。
境内の本殿、天神社、八王子社の写真は撮ってません。
創建の詳細不明。
平安中期927年『延喜式』では、相楽郡六社のひとつ。
【鎮座地】明治23年蟹満寺の南西より現在地に遷されたという。
元の鎮座地、蟹満寺の南西ってどのあたりなんでしょうね。
井手には、橘諸兄の邸があったり、さらに北に小野小町ゆかりの地。
中臣鎌足が落馬したのは山科とされるので、近いかな。
現在の京都の行政区では
ブルーが南山城で、グリーンが北山城です。
奈良時代大和国の背後あるところから山背(やましろ)と記すも、
平安遷都により山城と改訂。
701年の大宝律令により、現在の山城町域は蟹幡(かむはた)郷と大狛郷に分割され、
地名の綺田(かばた)の「綺」も「かむはた/かにはた/かんはた」と呼ばれた。
綺は、錦に似た薄い絹織物を意味し、
「かむはた」は、神の美称(かむ)と織物(はた)に由来。
神に献ずる衣服を織る人々か、養蚕に携わった綺(かば)氏(秦氏)が住していたともいう。
また、「蟹のいるような河庭原(かにははら)」の意味であり、
天井川の天神川出水に因んだものともいう。
蟹満寺は、白鳳時代(645~710)に
秦和賀(はた の わか)によって創建されたと伝わる。
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