産経新聞の北摂街道を行くという特集で、今年7月10日には今城塚古墳が取り上げられていました。
囲み部分に今城塚古代歴史館の森田館長さんの談話が載ってました。
「北摂には古代の遺跡が数多くあります。
その代表格が淀川流域最大の前方後円墳の今城塚古墳です。
真の継体天皇陵とされ、発掘現場では「日本の兵馬俑といわれる埴輪群が見つかっています。…」
但馬の竹田城跡を日本のマチュピチュもいいすぎだと思うけど、
ここも「西安の兵馬俑も怒るで、しかし」だとオモフ。
午後1時半から始まる「埴輪から読み解く『継体陵』」まで半時間もなくて、
入口におられたガイドさんに、案内を頼みました。
とても親切に要領よくご説明いただけました。
武烈天皇の泊瀬列城宮跡は5月に行きました→ 出雲ムラの十二柱神社
第26代継体天皇 450年?~531年3月10日?
近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生した応神天皇5世の孫
父は彦主人王(ひこうしおう)母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)
506年武烈天皇が継嗣なく崩御したため、57歳の男大迹王は大伴金村や物部麁鹿火らの推薦によって大王として擁立されました。
天皇家の系図みても、応神天皇5世の孫っていわれても…という感じ。
後に以下系図が見つかり、仁徳天皇に若野毛二俣王という兄がいたらしい。
凡牟都和希王(応神)- 若野毛二俣王 - 大郎子(意富富杼王)- 乎非王(私斐王)- ?斯王 - 乎富等大公王(継体)
宇治にある世界遺産・宇治上神社に祀られている菟道稚郎子命。
このときの記事は→2012年11月12日
仁徳天皇が天皇になられた経緯も、微妙~
さらにまたここに、若野毛二俣王が三島の地に居られてさらにややこしい。
どたらにしても淀川沿いの摂津三嶋は、「倭の五王」時代にはとても重要な港、津ノ江だったことは間違いない。
その重要地点を信頼できる直系の息子に守らせていたのでしょう。
高槻市お隣の茨木市にある、宮内庁が継体陵と比定する太田茶臼山古墳と、
羽曳野の古市にある誉田御廟山古墳はとても似ているそうです。
設計図もほぼ同じらしいです。
生存していた時代がかぶるというのもわかっているそうです。
太田茶臼山古墳は5世紀はじめの築造で、応神陵築造直後とみなされ、
若野毛二俣王が葬られたのではないかと、後の講演で聞きました。
もし継体新王朝説を採用したとしても、
現皇室は1,500年の歴史を持ち現存する王朝の中では世界最長であることには間違いありません。
囲み部分に今城塚古代歴史館の森田館長さんの談話が載ってました。
「北摂には古代の遺跡が数多くあります。
その代表格が淀川流域最大の前方後円墳の今城塚古墳です。
真の継体天皇陵とされ、発掘現場では「日本の兵馬俑といわれる埴輪群が見つかっています。…」
但馬の竹田城跡を日本のマチュピチュもいいすぎだと思うけど、
ここも「西安の兵馬俑も怒るで、しかし」だとオモフ。
午後1時半から始まる「埴輪から読み解く『継体陵』」まで半時間もなくて、
入口におられたガイドさんに、案内を頼みました。
とても親切に要領よくご説明いただけました。
武烈天皇の泊瀬列城宮跡は5月に行きました→ 出雲ムラの十二柱神社
第26代継体天皇 450年?~531年3月10日?
近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生した応神天皇5世の孫
父は彦主人王(ひこうしおう)母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)
506年武烈天皇が継嗣なく崩御したため、57歳の男大迹王は大伴金村や物部麁鹿火らの推薦によって大王として擁立されました。
天皇家の系図みても、応神天皇5世の孫っていわれても…という感じ。
後に以下系図が見つかり、仁徳天皇に若野毛二俣王という兄がいたらしい。
凡牟都和希王(応神)- 若野毛二俣王 - 大郎子(意富富杼王)- 乎非王(私斐王)- ?斯王 - 乎富等大公王(継体)
宇治にある世界遺産・宇治上神社に祀られている菟道稚郎子命。
このときの記事は→2012年11月12日
仁徳天皇が天皇になられた経緯も、微妙~
さらにまたここに、若野毛二俣王が三島の地に居られてさらにややこしい。
どたらにしても淀川沿いの摂津三嶋は、「倭の五王」時代にはとても重要な港、津ノ江だったことは間違いない。
その重要地点を信頼できる直系の息子に守らせていたのでしょう。
高槻市お隣の茨木市にある、宮内庁が継体陵と比定する太田茶臼山古墳と、
羽曳野の古市にある誉田御廟山古墳はとても似ているそうです。
設計図もほぼ同じらしいです。
生存していた時代がかぶるというのもわかっているそうです。
太田茶臼山古墳は5世紀はじめの築造で、応神陵築造直後とみなされ、
若野毛二俣王が葬られたのではないかと、後の講演で聞きました。
もし継体新王朝説を採用したとしても、
現皇室は1,500年の歴史を持ち現存する王朝の中では世界最長であることには間違いありません。
継体天皇から新しく始まった流れ、皇后に葛城系の手白香皇女をもらって、しっかりつじつま合わせているのですね。
アップされた系図に反応してしまいました。安康・雄略天皇あたりのことは、掘り出され考古学的にも実証された遺跡があり、古代ロマンが肌で感じられます。一時、中継ぎを担った飯豊青皇女も興味深いですね。葛城歴史博物館には、このあたりの歴史のスペシャリストがいらっしゃいます。
継体天皇へつなぐまでに、いろいろあったんだなあ…。古墳分布図も、古墳に囲まれ住んでいるので、地理的に把握できてより実感しました。
ところで、ulalaさま、ブログ中ほどあたりで「オモフ」とか、今回はキャラがちょっぴり変わってらっしゃいませんか?!
私もほんの数年前まで古代史に興味なかったでした。
観光で教会神社仏閣墓参り行っても、行った、見てきたという時期が長く続きました。
今回オモフとおちゃらけにしたのは、否定的見解を断定するのを避けました。
>発掘現場では「日本の兵馬俑」といわれる埴輪群
と館長さんが言われてるのに、秦の兵馬俑のレベルと違うなんて大上段から言うのも大人気ないし。
さて三島って、いろいろ気になるところです。
神武天皇の后となった姫鞴五十鈴姫は、
事代主神がワニになって三島溝杙姫(玉櫛姫)の元に通いに生ませた姫なんですよね。
三島鴨神社の祭神は、大山祇神と事代主神の二柱。
渡来神としてのオオヤマツミや、鴨族のコトシロヌシやわけわからんようになってます。
由緒には、百済からここ摂津の「御島(三島)」に鎮座したとあるそうで。
なんか百済とつながること多くて、どのように記事まとめていいかわからなくなってます。
伊予の大三島神社も伊豆の三島神社もすぐ近くまで行きながら参拝のチャンス恵まれてません。
まだお呼びではないのでしょう。
1月に敦賀の気比も参りましたが、こちらもまだ記事にできてない。
応神天皇から継体天皇まで、とても気になるのですがスッキリこうだったのかと納得いってません。
それにしても宮内庁が比定しなかったら、今城塚のようにいろいろ調べることができていいですね。
かつて仁徳天皇陵といわれたのが、今や大仙古墳に名前かわったようで雄略陵という説もあるらしいです。
こちらも正確なところ知りたい。
もうええかげんはっきりさせてほしいもんです。
日本人のルーツをはっきりさせてアイデンティティを確立し、身勝手な近隣諸国との関係を再構築しないといけないと思います。
武烈天皇を調べていて、この夏前に知りました。
この度のDIVAさんのコメントで登場して、ちょっと驚きです。
今まで全く無名だったのに、突然スポット当たった感ありビックリ。
なんかメッセージ性感じます。
飯豊青皇女の忍海角刺宮は、こちらで記事にされた鴨都波神社からは、隣町の近さです。勝手にご近所さん感覚で親しみ抱いているのですが、途切れた皇統をなんとかつなごうとした姫なので偉いなあと。オケ・ヲケあたりも面白いですよね。もう、ご存じかと思いますが、おっちゃんたちのグループがフィールドワークして、丁寧にレポートされてるHPを貼っておきますね。
http://inoues.net/tenno/iitoyo_tenno.html
仁徳陵については、私もその昔、郷土歴史家に「今はそう言いません!!」とオコられたことがあるんです。それ以来、○○天皇陵古墳と呼ぶようにしています。
何でもかんでも天皇陵には「古墳」とくっつけとけば間違いないや なんて思ってます。
世界遺産を目指す百舌鳥古墳群ですが、陵(みささぎ)の主はナゾのままですね。タウンミーティングに出席したおり、堺市の考古学担当の方が、「江戸時代の古地図に仁徳陵とあったこと」「古墳名については、資料で、さかのぼれる範囲に基づいていること」そして「宮内庁比定の陵墓であること」など説明しておられました。堺市も掘りたいのはやまやまのようですが、現在は確認できるこれらの認識を基に、世界遺産登録という夢に向かって歩を進めているようです。
もうすぐ秋ですね。ulalaさまの古代への探求心におおいに刺激を受けています。私は大和葛城への限られた範囲だけの興味ですが、古代は時空を超えて、いろんなことがつながってくるので、ホントに興味深いですね。様々な記事、いつも楽しく拝見しています。心より ありがとうございます。
このおっちゃんたちのサイト、このたびの三島で検索した時もヒットして参考にさせてもらってました。
しかし飯豊青皇女のページは見てなかったです。
先だって、葛城の名柄アートフェスタのご案内で、リンクはってらしたブログはかつてよく訪問してました。
2年前からバッタリ更新途絶えたので、 jumgon さんどうされたのかなと気になってました。
ひょんなところでDIVAさんが繋がれて、これもびっくりでした。
さて三島のことは私もよくわからないので、あと一回、藤原鎌足に触れるつもりです。
しかしどこまで説明すべきかで思案中です。
三島鴨神社とかはいずれ調査行ってきますわ。
いやさかの木様がグログで少し前に「森浩一先生」の著書をすすめられてたので、新しい知識に触れようと、図書館で数冊借りてました。(歴史をひもとくのに、現場主義や考古学に基づいて理解するの、好きなんです。ここ掘れ ワンワン!主義です)
借りた本の中に ありました ありました 『継体大王と渡来人』…。百済その他がてんこ盛り。ワケわからんなりに、何かの糸口がつかめるかと書物の森に分け入ってみます。
新たな興味を抱くきっかけ、ありがと~♪
藤原鎌足・三島鴨神社リポート、楽しみにしてますよ~♪
考えれば考えるほどドツボハマるので、適当に端折って書きました。
ご高覧賜れば幸いです。
継体天皇と渡来人、どんなだったかまたお聞かせください。
今後の日本も揺らいじゃいけないようにもそこは風にお任せし見守ります。
三島や鴨についても気比についても出てきましたね。そう奈良桜井から大阪平野でそれから伊豆だと分かり安いかも。そこにいた一族はどんどん後退していかざるを得なかったのかも?
2、3日前に群馬榛名山の辺りの古墳から埴輪のフォーメーションが当時のまま残っている物の紹介がテレビでやってましたよ。そこに巫女と王とお相撲さん。シチュエーションごとに意味合いがありそうで神事的などうしても古墳に埴輪として残す手法で今に至るっすてきでした。意味合いの研究はこれからですけど。研究者にお任せして発表を待つだけですね。
群馬の古墳の保存は、火山灰ですから皮肉ですね。イタリアも地震で大変ですし、ポンペイのような。自然との関わりは大昔から変わらない、今でも続いてますし。9995
このときは知らなかったのですが、私の出身高校の大先輩で、どうやら私の実家の最寄り駅反対側にお住まいあったようです。
ネット購入した文庫本は字が小さすぎて老眼かけないと見えないフォント、悲しいかな、未だ読みきれてません。
私の出身小学校は黒山で、近くに黒姫山古墳という5世紀中頃築造と考えられる前方後円墳があります。
武具がいっぱい見つかっています。
群馬県の榛名山の、噴火した灰で埋まってた武具装着人骨、埼玉の稲荷山古墳出土鉄剣。
大阪の河内は山越えたら奈良、そしてずっと東の関東の群馬ともつながってるんですね。
土曜に橿原の講演聞いてきました。その中で首長の系統と古墳の系統を繋げて発見をしていく作業があり私もその系統の信念的な個性を感じ取ろうとしている事もありとっても理解しやすかったです。かなり疑問に思っている事が同じで考古学者さんの今後は超応援しております。昔、地層を変えたり持ち込みしたりという事件もありましたが今は現実を受け止め定説を覆すような事が目の前にあっても決して揺らがない信念を持った方が活躍出来るような土壌はあると思いますよ。
本題ですけど黒姫は確か山陰か越かあっちの方でもあったので気になっていたのですけどなんと講演でも出てきたのであれ〜と思いました。大阪なんですね、意味ありそうですね。
あと面白い事言ってくれてました。
奈良の古墳の最後の方の出土品とその後サキの古墳に以降していくのですけど同じような物があり関連が何かしたありそうだとも。サキって漢字はでないのですけど平城京の辺りだったように調べて思いそこで私が近くまで行ったのがいわの姫古墳で車が落っこちかねないので諦めた場所です。
黒い姫は何か謎がありそうですね。
そして鳥のかた仁徳さんにお妃になり嫉妬で大変でしたっけ?
前の古墳の首長系統からつれて行かれた?と妄想中です。お腹に子供いたら応神とか?本当は白い姫のような気も。悪く書かれているので。
八幡に関わるのは間違いなさそうですよ。
実体験のみの素人の発想ですけど。6442