2017年12月に15年ぶりに訪れたロンドンで、中古レコード店の見慣れたロックやジャズ・コーナーに飽きて、気分転換しようと足を踏み入れたクラシック売り場の現代音楽コーナーが全く知らないレコード満載の宝の山だと気がついた。メシアン、ペンデレツキ、ケージ、シュトックハウゼン、ヴァーレーズ、クセナキス、アイヴスなどの有名作曲家に交じって、北欧や東欧の名前も読めない作曲家の作品が多数あり、80年代初頭に雑誌『Fool's Mate』でRIO/レコメン系のユーロロックに出会ったときに似た衝撃と興奮が甦り、感動に震えながら勘だけを頼りに未知の盤を何枚も買い込んだ。日本へ帰って聴いてみて、多くはイメージ通りの”真っ当な”現代音楽で、それはそれで満足したが、1枚だけ予想外の奇妙なレコードがあった。A面すべてを使ったカルト教団の儀式のような詠唱と、10分近いジャンクノイズのインダストリアル音響。10数年前に初めて聴いたM.B.(マウリツィオ・ビアンキ)の『Neuro Habitat』の切れ目のない長尺バイオニックノイズの驚愕と歓喜を再び味わった。「こんなのありなのか!?」と耳から鱗の経験だった。それがハンガリーのZoltán Jeneyという作曲家との出会いだった(ハンガリー語ではゾルタン・イェネイと発音するようだが、個人的には英語風にゾルタン・ジェニーと呼びたくなる)。
イェネイのことは前々からブログで取り上げようと思っていたが、今回検索したところ、なんと昨年10月に亡くなっていたことを知った。日本では無名の音楽家だから報じられることもなく知る由もなかったが、コロナ禍で引きこもってネット検索をしていたおかげで訃報を知ることができたことは、幸運というべきか悲しむべきか。。。。遅すぎたとはいえ、追悼の意を込めて記しておきたい。
●Zoltán Jeney 『To Apollo / For Glass And Metal / Soliloquium No. 3』
(Hungaroton – SLPX 12366 / 1982)
1982年にリリースされたイェネイの2作目の単独作品集。A面全部を占める「To Apollo」(1978)は、オルガン、コーラングレ(イングリッシュホルン)、アンティーク・シンバル、男女コーラスによるカンタータ。歌詞は古代ギリシャの詩人カリマコスによる讃美歌である。イェネイが古代ギリシャ音楽からヒントを得て生み出した「疑似モーダル音階」で作曲され、十二音音楽とも四分音とも異なる不思議な旋律を奏でる。手法的にはミニマルミュージックに通じるが、そこからイメージされる洗練さは皆無で、伝承民謡や土着の祭祀音楽と同質の呪術性が濃く感じられる。B-1「For Glass and Metal」(1979)は、彫刻家のBuczkó Györgyのガラスと金属の展覧会用に制作された曲で、鉄工所とガラス工房での録音素材を用いたミュージック・コンクレート。工事現場を思わせるジャンクノイズで始まるが、様々な音源の組み合わせの妙で抒情的なストーリー性のある音響組曲になっている。同じころ登場したスロッビング・グリッスルやキャバレー・ヴォルテール等のインダストリアル・ミュージックとの直接の関連はないだろうが、興味深いシンクロニシティである。B-2「Soliloquium No.3」(1980)は1979年に没した進歩的哲学者István Bibóに捧げられた曲。十二音技法によるシェーンベルク風のピアノ曲だが、日本でも人気のあるピアニスト、ゾルタン・コチシュが奏でる水滴が落ちるようにランダムなピアノの単音は、意図せず環境音楽/アンビエント・ミュージックに接近して聴こえる。ちなみに「Soliloquium(ソリロキウム)」とは、イェネイの無伴奏器楽ソロ曲シリーズのタイトルで、No.1:フルート(1967)、No.2:ヴァイオリン(1978)、No.4:オルガン(1980)、No.5:アルトサックス(2016)がある。スウェーデンに同名のドゥームメタルバンドがいるがもちろん無関係だろう。
Cantata on a hymn by Callimachus
●Zoltán Jeney 『Wohin?』
(Budapest Music Center Records – BMC CD 240 / 2017)
『To Apollo』を聴いて俄然興味が沸いて、アマゾンで調べて唯一購入できた最新アルバム。1曲目「Wohin?」(2013)は"何処?"という意味の短い管弦楽曲。2003年のイラク戦争にインスパイアされて作曲された。一聴してベートーヴェン「歓喜の歌(交響曲第9番第4楽章)」のオマージュ(パロディ)だと分かるが、元々フランス革命の直後にドイツで愛唱された詩人シラーの「自由賛歌」を基にした歌詞を持ち、東欧革命やベルリンの壁崩壊を祝して演奏された原曲を、不安を掻き立てる不協和音でデフォルメして、"抱き合おう、諸人(もろびと)よ!この口づけを全世界に!"という元の歌詞を、"偶像崇拝に陥るのか、諸人よ?世界の創造主を知ってるのか?"と改作することで、悲惨な戦争への皮肉を表現している。他にハンガリーの詩人デジェー・タンドリによる"ヘラクレイトスの詩"にインスパイアされたピアノ曲「Heraclitus Series」(1980-2013)、ウィリアム・ブレイクの詩による歌曲「Songs Of Innocence And Experience」(2013)、電子計算機を使って作った音列を用いて作曲されたクラスター交響曲「Pavane」(2007)など革新的な作品を収録。70代半ばを過ぎてますます旺盛な創造意欲を証明した本作が、残念ながら遺作となってしまった。
Wohin? 2013
●Zoltán Jeney / László Sáry 『Contemporary Hungarian Music』
(Hungaroton – SLPX 11589 / 1974)
ヤフオクで偶然見つけてつい1週間前に落札したレコード。同胞の作曲家ラースロー・シャーリ László Sáryとのカップリングでリリースされた『現代ハンガリー音楽』シリーズの中の1枚。ハンガリー音楽界で認められるきっかけになったフルートのための「Soliloquium No.1」(1967)、シェーンベルクに捧げたオーケストラ曲「Alef - Hommage à Schönberg」(1971-72)、ピアノ、ハープ、ハープシコードによるトーン・カラー(音色主義)作品「Round」(1972)を収録。B面のシャーリの作品も古典的な前衛音楽とは色の違う新鮮さが感じられて興味深い。前衛の停滞期と呼ばれる70年代初頭に、その反動として登場したポスト・アヴァンギャルドの息吹が漲っている。
イェネイの作品は概してレア盤ではないが、日本ではめったに見つからず、偶然の出会いを期待するしかないが、AB面同じフレーズが反復される超ストイックなミニマルミュージック『OM』(1986)は何とかして入手したいと夢見ている。なお、同姓同名のフルート奏者がいるので注意のこと。
OM - két elektromos orgonára - 1. rész
●バイオグラフィ
ゾルタン・イェネイ Zoltán Jeney (1943年3月4日生 - 2019年10月28日没。享年76歳)は、ハンガリーの作曲家である。
1970年代から80年代にかけてハンガリーで発展した実験芸術運動の代表的な人物の一人。
略歴
ハンガリーのソルノク生まれ。最初にピアノを学び、デブレツェン中等音楽学校でポングラーツの作曲クラスに参加。その後1961–66年ブダペストのリスト・フェレンツ音楽大学でフェレンツ・ファルカシュに作曲を学び、1967–68年ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミアでゴッフレド・ペトラッシに師事した。1967年に作曲し1968年に初演されたフルートのための「ソリロキウム第1番」が高く評価される。
1970年にエトベシュ、コチシュ等志を同じくするハンガリーの若手音楽家たちと共にブダペスト・ニュー・ミュージック・スタジオを設立。このスタジオは作曲家や演奏家のための国際的に有名なワークショップとなり、1972年から1990年の間に600曲以上の現代音楽作品が発表された。
1986年からリスト・フェレンツ音楽大学の教授を務め、1995年からは作曲学科の学科長を務めた。90年代以降、ハンガリー作曲家協会、国際現代音楽協会(ISCM)、セチェニ文学芸術アカデミーなどで理事を務め、ハンガリー現代音楽界の重鎮として活動した。
フェレンツ・エルケル賞(1982年)、芸術功労賞(1990年)、コッスート賞(2001年)、アルティス音楽賞(2001年)、エイゴン・アート共同賞(2006年)を受賞。また、バルトーク・パシュストリー賞を2回(1988年と2006年)受賞している。
2019年10月28日 ブダペストにて死去。享年76歳。
作風
初期の作曲では、ベーラ・バルトーク、ルイージ・ダッラピッコラ、アントン・ヴェーベルンやアルバン・ベルクなどの新ポーランド学派、ジョルジュ・クルターク、ツォルト・デュルコの影響を受けている。1960年代後半には、ピエール・ブーレーズの理論、カールハインツ・シュトックハウゼンの作曲、東洋哲学に興味を持ち始め、ジョン・ケージの哲学に触れたことでその方向性が強まった。
1970年代にはミニマル・スタイルでの作曲を始め、その時期の作品は、極端に切り詰めた静的な作風を特徴としている。また、未知の音のつながりを研究するために、1973年から音楽以外の様々な素材(テキストの引用、チェスのマッチの動き、ソリティアのゲームの動き、テレックスのテキストのリズムなど)を形式、旋律、リズム、音色の要素として使用した。
1980年代以降、彼は再びバロックやバロック以前の時代を彷彿とさせる対位法を採用するようになり、テキストと旋律の形成において、グレゴリオの伝統とハンガリー民族音楽の伝統の両方を引用した、アーカイックな音色制作のスタイルが現れた。技術的には過去数十年間に自ら開発した基本的な音楽理論を継承しているが、近年の作品では、若い頃には厳しい構造の陰に隠れていた自由な感情と繊細な直観性が全面に現れている。
作品には、管弦楽曲、室内楽曲、歌曲、合唱曲、電子音楽、コンピュータ音楽、他の作曲家との共同作業、付随音楽(演劇、映画)などがある。彼の作品のいくつかは、ハンガロトン・レーベルとBMCレコードからリリースされている。
参考:Budapest Music Centerウェブサイト
追悼記事(ハンガリー語)
年譜
1943年3月4日
ハンガリー、ソルノク生まれ
1957-1961年
デブレツェンのゾルタン・コダーイ音楽高校でゾルタン・ポングラーツに作曲を師事。
1961-66年
ブダペストのリスト・フェレンツ音楽大学でフェレンツ・ファルカシュに作曲を師事。
1967/68年
ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミアでゴッフレド・ペトラッシに師事。
1968年
ユトレヒトのゴーダムス音楽祭でフルートのための「ソリロキウム第1番」が初演される。
1970年
ペーター・エトヴェシュ、ゾルタン・コチシュ、ラースロー・シャーリ、アルバート・シモン、ラースロー・ヴィドツキーと共同で、ブダペストにニュー・ミュージック・スタジオを設立。まもなく、ギュラ・チャポー、バルナバス・デュカイ、ジャイオリー・クルターク・ジュニア、ゾルト・セレイ、アンドラーシュ・ウィルハイムが参加。
1971年
ゾルタン・フシャリク監督の映画『Szinbád(シンドバッド)』の音楽を担当。この映画が大成功を収めた後、いくつかの映画の音楽を依頼される。
1972年
ダルムシュタットのノイエ・ムジーク協会(Ferienkurse für Neue Musik)に参加し、クリスチャン・ヴォルフの講義と音楽に興味を持つ。
オーケストラのための「アレフ-シェーンベルクへのオマージュ」を完成させる。同年、ハンガロトンよりペーター・エトヴェシュの指揮で録音される。
1973年
音楽以外の資料(テキスト、気象データ、チェスのゲーム、テレックスなど)を音楽に応用する。
1974年
パリのニューミュージック・スタジオと3回のコンサートを行う。
ラースロー・シャーリ、ラースロー・ヴィドツキーとの初の共同作曲「Undisturbed」がハンガリーの音楽界で物議を醸す。
1975年
E.E.カミングスの詩に深く関わる。
1976年
グレゴリオ聖歌を専門とする合唱団「スコラ・ハンガリカ」のメンバーとしてフランスを訪れる。
1978年
ギリシャ訪問中に、古代ギリシャの2つの音階に基づいた「擬似的なモーダル音階システム」を発見する。このシステムは賛美歌「To Apollo」の中で探求されている。
ハンガロトンが最初のポートレート(単独)LPをリリース。
1979年
パリで発行されたハンガリー文学批評誌「マジャール・ムヘリー」からラヨス・カッサーク賞を受賞。
1980年
ドナウッシンゲン音楽祭でオルガンのための「ソリロキウム第4番」を初演。
1981年
ポーランドで開催された夏の作曲セミナーでゲスト講師を務める。
イタリアでバルトーク生誕100周年を記念して、ルイジ・ノーノからハンガリーの新曲コンサートの招待を受ける。
ハンガリー音楽家協会の実行委員会メンバーに選出される。
1982年
パリのIRCAM(Institut de Recherche et Coordination Acoustique/musique)でコンピュータ音楽を学ぶ。
ハンガリー文化省よりフェレンツ・エルケル賞を受賞。
1984年
スウェーデンでのツアーで、30曲以上の作品が9回のコンサートで演奏され、そのうち5回は世界初演となる。
1985年
ニューヨークのコロンビア大学で4ヶ月間研究教授を務める。アメリカのいくつかの大学で講義を行う。ニューヨークのエクスペリメンタル・インターメディア・ファウンデーションでポートレート・コンサートを開催。
1986年
ハンガリー・ジャイウール夏期作曲コース客員教授。
リスト・フェレンツ音楽大学の准教授として、オーケストレーション、バロックの対位法、和声、現代音楽の分析などを教える。
1988年
ベーラ・バルトーク=パシュストリー財団よりバルトーク=パシュストリー賞受賞。
1988/89年
DAAD奨学金を得て西ベルリンに滞在。
1990年
ハンガリー政府より功労芸術家に指定される。
ハンガリー作曲家協会の理事となり、1993~1996年まで会長を務める。
1991-1994
ブダペスト市長諮問委員会のメンバーとなる。
1992年
セビリア万国博覧会のハンガリー館のために、ラースロー・ヴィドツキーとサウンドプロジェクトを立ち上げる。
1993年
セチェニ文学芸術アカデミー(ハンガリー科学アカデミー設立)理事会メンバーとなる。
国際現代音楽協会(ISCM)のハンガリー執行委員会メンバーとなる。
1994年
大規模なオラトリオ「葬送の儀(Funeral Rite)」の3つのパートの第1番「Commendatio animae」がブダペストで、ユーディ・メニューイン卿が指揮するブダペスト音楽祭管弦楽団の委嘱により初演される。
1995年
リスト・フェレンツ音楽大学作曲科学科長に就任。
1998年
ペスト・ブダ・オブダ統一125周年記念のために作曲された「コントラクタム」初演
2001年
ハンガリー政府よりコッスート賞を受賞
2005年
ゾルタン・コチシュ指揮国立フィルハーモニー管弦楽団・合唱団による「葬送の儀」の初の全曲演奏(ブダペスト)。
2006年
ベーラ・バルトーク=パシュストリー賞受賞。
2019年10月28日
ブダペストにて死去。享年76歳。
Jeney Zoltán emlékére (1943-2019)(ゾルタン・イェネイが手掛けた映画音楽の紹介。インタビュー入)
*お断り:ハンガリー人の姓名は本来、日本人と同じく「姓・名」の順だが、ここでは馴染みのある英語表記に倣って「名・姓」の順にした。
ハンガリアン
ハングリー精神
アングリー
▼ジェニー(愛称)さん、安らかにお眠りください