浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

軍部の独走

2024-07-20 10:05:03 | 近現代史

 一九四五年に終わった戦争を振り返るとき、そこに軍部の独走があったことは周知の事実である。暴力装置を保持している軍部は、政治家を脅し、官僚を従え、「統帥権の独立」を悪用して戦争政策を推進した。そして日本を敗戦国に導き、対米隷属の国家へと日本を貶めた。対米隷属の国家へと貶める尖兵となったのは、旧海軍をはじめとした勢力であった。旧海軍に戦争責任を課さないように、旧海軍将校はアメリカ軍に取り入り、戦後自衛隊が発足してからは、堂々とアメリカ軍の付属部隊としての存在にもっていった。海上にあるアメリカ軍のまわりに、海上自衛隊の艦船がコバンザメのようにとりつく姿を見かけたことがあるだろう。

 そうした旧海軍はじめ、旧日本軍のDNAをしっかりと継承している自衛隊は、日本防衛隊という外被をかなぐり捨てて、アメリカ軍の指揮下に、海外へと遠征する外征部隊としての様相を示しつつある。

 となると、日本の軍事機密は、同時に米軍の軍事機密となる。日米の軍事一体化は、強い秘密保持制度を具備することになる。

 さて、自衛隊の最高指揮官は、内閣総理大臣である。自衛隊法にはこうある。

第七条 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。

第八条 防衛大臣は、この法律の定めるところに従い、自衛隊の隊務を統括する。ただし、陸上自衛隊、海上自衛隊又は航空自衛隊の部隊及び機関(以下「部隊等」という。)に対する防衛大臣の指揮監督は、次の各号に掲げる隊務の区分に応じ、当該各号に定める者を通じて行うものとする。(各号略)

 しかし、実質的に自衛隊の指揮権は米軍がもつ。となると、この自衛隊法の上記の条文は、空文化する。自衛隊は、日本の総理大臣や防衛大臣よりも、米軍を仰ぐ。日本国民が、自衛隊への監視を疎かにし(それは、利権にしがみつくウルトラ右翼の自由民主党と自民党のコバンザメの公明党に政治をさせているということと同義である)た結果、自衛隊の独走を許すことになったのである。日本国民はかつての戦争の、異なる形での軍部独走を許しているのである。

 だから、『東京新聞』の記事に記されたような事態が起こるのだ。木原稔防衛相が知ったのは「野党より後」…ガバナンス欠如の防衛省自衛隊、元隊員の「逮捕」を8カ月報告せず

 その本文の一部を掲げる。

 木原稔防衛相は19日の記者会見で、海上自衛隊の潜水手当不正受給問題で元隊員4人が逮捕されていたことについて、約8カ月間報告がなかったと明らかにした。木原氏が逮捕の事実を知ったのは18日深夜。隊員らの一斉処分を公表した12日の段階でも把握していなかったことになり、「適切な発信ができておらず、深くおわび申し上げる」と謝罪した。大臣を補佐する本省内部部局(内局)が必要な情報をトップと共有しなかったことは「シビリアンコントロール(文民統制)」を揺るがす事態だ。(川田篤志)

 木原氏は会見で「大臣にしっかり報告するという文民統制の要諦が守られていない恐れがあるなら、由々しきことだ」と内局の対応を批判。自らの進退については「引き続き防衛省・自衛隊の体質改善をやらなければいけない」と辞任を否定した。防衛省は今後、報告が遅れた経緯や原因を調査し、関係者の処分も検討する。
 
 
 18日午後、立憲民主党の会合で防衛省担当者が逮捕について説明したことを機に、報道機関から問い合わせが相次ぎ、木原氏に報告した。防衛相の直轄部隊である警務隊による逮捕を共有していなかった理由について、19日未明に取材に応じた三貝哲・人事教育局長は「私が大臣に報告しない判断をした。判断ミスだった」と責任を認めた。三貝氏は19日付で退職した。
 逮捕者が出た場合、通常は書面で大臣に報告されるが、不正受給問題の調査が継続中だったため報告しなかったという。結果的に、木原氏の事実把握は、野党より遅れたことになる。

 

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変わりゆく日本

2024-07-08 22:12:05 | 近現代史

 『世界』8月号が届いた。ひとつだけ読んだ。内田雅敏弁護士の『陸軍将校たちの戦後史 「陸軍の反省」から「歴史修正主義への変容」』(角田燎、新曜社)の書評である。

 旧海軍将校の親睦会に「水交会」があり、陸軍将校のそれには「偕行社」がある。戦前からある団体である。私は、いづれ、それらの団体は消えゆくものと思っていた。旧軍の将校はほとんど亡くなられていると思っていたからだ。

 しかし、それらは自衛隊のOBを参加させて、これからも存続し続けるという。

 それとともに、旧軍を全面的に肯定するような動きが強くなっているようだ。書評のはじめに、「靖国神社」の宮司に、もと海上自衛隊海将大塚海夫が就任し、小林弘樹陸上幕僚副長らが公用車を使用して「靖国神社」に参拝するなど、自衛隊と旧軍が直線的につながる事例を、内田は掲げているが、もちろんそのような事例はこれだけではない。

 1945年に敗戦として終わった戦争を、批判的にみない風潮、すなわち旧軍を肯定する風潮が、自衛隊に強まっているようだ。憲法の「改正」、自衛隊の「国軍化」を目ざすことも主張するようになっている。

 「水交会」も「偕行社」も、「鬼畜米英」と国民を戦争に動員して多くの若者を殺したのだから、当然厳しく反省し、その気持ちを持ち続けなければならないはずだ。

 しかし、戦争直後、とりわけ旧海軍はみずからの戦争責任を免れるためにアメリカにすりより、その結果戦争責任を陸軍におしつけ、自衛隊が出来るやいなや米軍と蜜月関係を築くなど、旧海軍の幹部連中は恥知らずな行動をとっていた。

 「偕行社」は、当初は反省的な動きもあったが、「戦争を体験しない」陸軍士官学校のメンバーが運営するようになってから、「歴史修正主義」へと傾いていったそうだ。

 戦争体験世代は、次々とこの世を去り、未体験世代がほとんどをしめるようになった。戦争体験を直接聞くことはできなくなり、戦争体験は「記録」として残されている。わたしは、直接戦争体験を聞いた世代である。戦争を知らない人びとがほとんどであるという現在、戦争とはいかなるものであったのかを伝えることの重要性を、この書評を読んで痛感した。

 昨今の社会状況をみると、もう手遅れかもしれないとも思う。

 今も現実に、ウクライナやガザで戦争は行われている。そこには悲惨な、凄惨な事態が無数に起きている。そこからも戦争とはどんなことかを知ることはできるはずだ。事実を知ること、そして事実を元に想像力を発揮すること、そして考えること、それが求められている。

 変わりゆく日本、変わりゆく先には、悲惨が待っているように思える。歴史は繰り返すというが、繰り返してはならないこともある。

 

 

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歴史的な「秋葉信仰」は、秋葉神社への信仰ではない!

2024-04-29 20:56:33 | 近現代史

1.はじめに
 歌川広重の「東海道五十三次」の浮世絵のうち、掛川(東海道から分岐して秋葉山に向かう秋葉街道の入り口がある)の絵には秋葉三尺坊の鳥居が描かれ、また井原西鶴の『好色一代女』に「三尺坊の天狗」が書かれているというように、浜松市天竜区春野地区にある秋葉山は、全国的に有名な宗教施設であった。


 明治初年までは、秋葉山山頂には秋葉寺があり、聖観音が祀られている本堂、秋葉三尺坊大権現が祀られている秋葉社などがあった。

 ところが明治維新によって成立した政府は、神仏分離・廃仏毀釈を強行し、古代以降の神仏習合思想に基づく伝統的な宗教意識を破壊し、「日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換」(安丸良夫『神々の明治維新』)をもたらした。その大転換は、秋葉信仰を翻弄、変質させただけでなく、大きな分裂を生み出したのである。

 秋葉信仰は現在も存続しているが、近世までの秋葉信仰はどういうものであったのか、さらにどのように変質・分裂させられたのかを知っておく必要はあるだろう。

2.秋葉信仰とは
 近世以降に流布した秋葉信仰の中心は秋葉三尺坊大権現に対する信仰で、その霊験は火伏せ(火除け)であるが、秋葉信仰それ自体を考えていく際には、それ以前のことも考えていかなければならないだろう。

(1)秋葉信仰とは
 これについてはすでに田村貞雄がこれまでの研究をもとに簡潔にまとめているので、それを箇条書きにして示しておこう(「序論ー秋葉信仰研究史素描」、『秋葉信仰』雄山閣)。
・秋葉信仰の発祥は、三尺坊という修験の行者を、その没後大権現として祀ったところにある。
・その三尺坊はもと越後に居住していた。三尺坊が遠州に来る契機は、武田氏と断交した徳川家康が越後の上杉謙信に密使叶坊を送ったことによる。叶坊が、長岡の蔵王堂三尺坊を連れ帰り秋葉山に住まわせたのである。
・三尺坊がもたらした信仰は飯縄信仰である。上杉謙信は飯縄信仰を熱心に信仰した。
・飯縄信仰とは、長野県飯縄山の飯縄大権現への信仰で、飯縄大権現も火防、火伏せの御利益があるとされている。飯縄大権現は白狐に乗った烏天狗で、三尺坊(長野県戸隠・宝光院出身)も飯縄信仰をもった行者であった。
・秋葉信仰が庶民の間に広がり、全国各地に講や常夜灯がつくられるのは、1685年(貞享2)の貞享秋葉祭からである。
 ここでなぜ火伏せが天狗と関係するかというと、それは近世において火事は、天狗の仕業であると考えられていたからで、飯縄大権現も、秋葉三尺坊も、御札の図柄は白狐の上に烏天狗が乗っている。御札を見ると、飯縄大権現と秋葉三尺坊の共通性が見て取れる。三尺坊の死後、三尺坊が信仰していた飯縄大権現が三尺坊大権現として信仰されるようになったのであり、したがって秋葉信仰とは、飯縄大権現にルーツをもつ三尺坊大権現に対する、庶民の火防、火伏せの信仰とまとめることができよう。
 その信仰が、明治維新によって激震に見舞われるのである(後述)。

(2)秋葉山の周辺
 秋葉山に、なぜ火伏せの信仰が発達したのかというと、その背景には焼畑文化があるという。焼畑とは、山野を焼いてその跡を耕作地とするものだが、延焼しないようにうまく鎮火させなければならない。鎮火の儀礼が火の信仰を生み出すのだが、そういう信仰は秋葉信仰だけではなく、愛宕信仰(京都の愛宕神社を中心とする信仰で、祭神は愛宕権現太郎坊で、火防、火伏せの天狗信仰)などがある。火の信仰の担い手として密教系の修験者の活動があり、このように火の信仰は修験道とも結びついていた。遠州地方でも、熊野修験や白山修験の活動があり、とくに北遠地方は修験が活発な地域であった。
 焼畑文化、修験の活動、そのような基盤の上に秋葉信仰が花開いたのであった。

3.神仏分離
(1)神道国教化
 神仏分離の背景にあるのは、神道国教化の動きであった。
 徳川幕藩体制を倒し、新たに新政府を樹立した薩長討幕派は、自らの正統性を担保するものとして、幼い明治天皇を手中においた。天皇を自らの勢力下に取り込むことによって新政府の権威を確立しようとしたのである。ところが明治初期において、天皇の権威はいまだ十分に確立されておらず、政治権力としての正統性を確立するために、新政府は、権力の中枢であると同時に権威の源泉である天皇の神権性を強調し、その絶対性を強調しなければならなかったのである。その手段として取り組まれたのが、神権的天皇制を理論的に支えるイデオロギーとしての神道国教化政策であった。

 天皇家も、仏教から神道へと宗旨替えをした。天皇家の菩提寺は、京都にある泉涌寺であった。天皇や皇族の死に際しては、泉涌寺の僧侶によって葬儀が行われていたのだが、1868年(明治元)の孝明天皇三年祭から神式に改められた。また民衆による伊勢信仰についても、穀物神である外宮の豊受大神に対する信仰が中心で、内宮の天照大神は信仰の対象ではなかった。天皇家についても、歴代の天皇のなかで、伊勢神宮にはじめて参拝したのは明治天皇であり、それ以前には誰も参拝していない。

 神道国教化政策は、国家神道(皇室神道も)の創出とともに、廃仏毀釈としても出現した。

 五ヶ条の誓文発布の前日(1868年、慶応4年)にだされた布告において、「王政復古」、「祭政一致」、「神祇官再興」、「神社・神主・禰宜など」の神職が「神祇官付属」となることなどが公表された。そして別当・社僧などという呼称で神社に勤務している僧職身分の者の「復飾」(還俗=出家した僧がもとの世俗の人に戻ること)が命令され、さらに別当・社僧などは還俗して神主として神勤し、そうでない者は立ち退くことが命じられた。
 その上、以下の布告が出された。

  一、中古以来、某権現(ごんげん)或ハ牛頭天王(ごずてんのう)之類、其外仏語ヲ以テ神号ニ相称候神社不少(すくなからず)候。何レモ其神社之由緒(ゆいしよ)委細ニ書付、早早可申出候事。
  一、仏像ヲ以テ神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事。
       付、本地抔(など)ト唱ヘ仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口(わにぐち)・梵鐘(ぼんしよう)・仏具等之類差置候分ハ、    早早取除キ可申事。

 当時の宗教状況が神仏習合の状態であることがこの布告からも判明するが、この状態から「仏」を取り除かせようというのである。つまり神仏習合的な宗教施設は、明確に神社にさせるという方向性が示されたのである。

 この頃、奈良・興福寺では僧が残らず「還俗」した。僧侶の一部は神社として独立した春日社に神勤したが多くは離散、また五重塔が25円で売却もされたほどであった。このように、全国各地で廃仏毀釈、強引な神仏分離が行われた。それは、秋葉信仰にも押し寄せてきたのである。
 
(2)秋葉山の神仏分離

 「秋葉神社の創立は、教部省と地方庁の権力をよりどころとした一山横奪にほかならなかった」(『神々の明治維新』159頁)といわれるように、秋葉寺の廃滅と秋葉神社の創立はきわめて強引に、また権力的に行われた。秋葉や寺院であることを主張する者たちを入牢・退去させ、秋葉山に僧侶がいないから「無壇無住ニ付、廃寺申付」としたのである。

 その経緯を年表にすると、次のようになる(高柳光寿「秋葉山神仏分離事件調書」などから作成、『明治維新神仏分離資料』、『神々の明治維新』)。※年表中「復飾」とは、「僧が僧籍を捨てて還俗すること」である。
                                                                                 
│1868│1月17日 │ │維新政府、第一次官制で太政官の下に、神祇科を設置する。      │
│        │2月3日  │ │官制改革により、神祇科は神祇事務局となる。                  │
│        │3月13日 │ │王政復古、祭政一致の布告出される。                          │
│        │3月17日 │A│神社に別当・社僧として神勤している僧職身分の者に復飾を命じる。│
│        │3月28日 │B│権現などを神として祀っている神社はその由緒を提出すること、仏像を│
│        │              │   │神としている神社は改めること、を布告。                      │
│        │              │C│秋葉寺では、由緒書などを提出。内容は、秋葉山は寺院であるとするものであった。                       │        │閏4月4日│D│別当・社僧は還俗のうえ、神主などとして神勤し、そうでない者は立ち退くことを命じる。                     │閏4月19日│ │神職の者は、家族も神葬祭にすることを命じる。                                 
│       │閏4月21日│ │神祇事務局、神祇官となる。                                  │
│       │7月2日      │E│Cに対して、弁事官より尋問したいとのことで関係者の出頭を求める。│
│       │7月3日  │ │秋葉寺は、住持は病気で上京できないと回答、後桃園院の綸旨の写しを提出した。                              
│    │7月4日  │F│秋葉寺役僧が願書を提出。秋葉寺は大権現と唱えてきたが、もともと将軍地蔵菩薩であって寺院で  ある旨の願書であった。              │
│           │        │ │Fに対して、弁事官は大権現が正一位という位階があるなら神社であるから復飾せよ、という命令を出す。                           
│           │7月8日  │ │神祇官、太政官の上に置かれる。                              │
│           │7月28日 │G│秋葉寺は、再度願書を提出する。三尺坊大権現を本尊とせず、聖観音を本尊とする寺院として存続したい、というものであった。        │
│            │        │H│弁事官から、Gの願書が却下される。                          │
│           │8月     │I│Hに対して、秋葉山、復飾猶予を求める願書提出。この件について泉涌寺家来一ノ瀬主殿らに依頼、多額の金員を支払う。              │
│          │10月    │ │Iについて、神祇官役所より1万日復飾を猶予するという通知。   │
│1869        │        │J│神祇官から静岡藩に対し、秋葉山の復飾結果につき調査を命じる。│
│             │6月7日  │ │Jに対する報告を静岡藩提出。(報告書残存していないので内容不明)│
│          │7月     │K│静岡藩、復飾猶予の許可(I)が偽りであったことを報告。      │
│          │9月     │L│修験17院のうち6院が、秋葉山を神社として、復飾を願い出る。「秋葉権現神社ト改号仕、純粋之神道を以奉仕度奉存候」。この願書を出した後、修験6院は山を下り、「脱走法師」と呼ばれた。                 │
│         │10月    │M│秋葉寺、11月16日の祭祀をどのようにすればよいのか伺いを神祇官に出す。                                             │11月    │N│秋葉寺は、「脱走法師」に秋葉山を渡さないため、速やかに復飾する旨の願書を神祇官に提出。静岡藩もそれを後押しする。            │
│        │11月8日 │ │神祇官、秋葉寺(高林庵)を呼び出し、10月、11月の願書(M、N)について却下することを伝えた。                                │
│         │11月    │ │神祇官、神社か仏寺かの調査を静岡藩に命じた。                │
│1870  │3月     │ │可睡齋、秋葉寺が仏寺であることについて、静岡藩を経由して弁官に提出。                                         │         │4月13日 │ │Kの偽りの復飾猶予についての一ノ瀬らが流罪となり、秋葉寺役僧らも処罰されることとなった。 
│         │5月24日 │ │秋葉寺役僧2名が、刑部省に呼び出され、謹慎を命じられた。     │
│         │10月3日 │ │静岡藩、調査結果を神祇官宛に提出した。その内容は、秋葉山は神社に決定すべきであろうが、神社であるか仏寺であるか分明できないので、朝裁を仰ぐとしながらも、修験方の申し出を否定し、仏寺とすることが至当であるとするものであった。                              │
│1871│               │ │廃藩置県によって静岡藩はなくなり、この地方は浜松県の管轄になった。│
│1872│2月15日  │ │浜松県、神祇省(神祇官が改称)に対して、秋葉山を神仏いずれかにするか決定してほしいという伺いを提出。                        │
│         │3月     │ │教部省(神祇省が改称)から回答くる。「秋葉大権現之儀、慶応3年12月27日、神階正一位ヲ被授候事故、向後秋葉神社ト称シ可申事」。なお神階授与については、授与されたのは浜松の秋葉社であって、秋葉山ではないという主張がなされた。                                  │
│        │5月17日 │ │浜松県、秋葉山に対して仏器・仏具などを取り除くように命令を出した。
│        │5月23日 │ │神社にしたいと願い出た元修験らに、神仏分離の実行を命じた。  │
│        │5月         │ │元修験ら、寺僧が三つの内一つしか鍵を渡さない、一部は仏器を取り除いたが、全山取り除くかどうか、神仏混淆のお守りを登山者に渡して良いかどうかなどの伺いを行った。                              │
│        │        │ │浜松県からの回答。神殿の奉仕だけしていればよく、そのほかのことについては、追って連絡する。      │        │11月15、16│O│元修験ら神式祭具をもって祭祀を行うために登山したところ、寺僧らが妨害して下山させた。                                       
│     │11月29日│ │浜松県、小国神社の世襲神官でもあり山住神社の祠官であった小国重友を秋葉神社祠官の兼務を命じた。                             
│1873 │1月2日  │ │伊藤泰治ら小国の推薦で、社務雇となった。                    │
│      │1月7日  │ │Oの件を、元修験らが訴え出たことから、寺僧方、元修験方の双方入牢。│
│      │1月9日  │ │大区長ら、小国重友、犬居村戸長ら秋葉山に登り、取り調べを行う。│
│      │1月11日 │ │元修験ら釈放、宿預かりとなり、秋葉寺役僧2名が入牢。         │
│      │2月3日  │ │浜松県、秋葉寺を廃して、僧侶の下山を命じ、宝蔵雑庫等を封印、鍵を可睡齋に預けさせた。秋葉寺の従者らを小国に預けた。          │
│      │2月28日 │ │浜松県は、従者らを可睡齋に引き渡し、秋葉神社に宝蔵雑庫の鍵を渡した。                                                  
│      │3月17日~│ │分離のための調査が行われた。                                │
│      │3月26日 │ │浜松県から大江孝文が出張し、小国に社務条例を下付し、祠掌らを任命した。仏体、仏具などを可睡齋に引き渡し、可睡齋住職から「秋葉寺廃寺」の請書を差し出させた。「右者無壇無住ニ付、廃寺申付候条、此段相達候也」に対して「右御申渡之旨畏候也」                    │
│      │5月27日 │ │千人長屋焼失。(建物については、観音堂、奥院、一切経蔵を可睡齋へ。│
│        │        │ │仁王門は神社の神門となる。鐘楼は破壊し、鐘は売却。)        │
│      │5月28日 │ │秋葉神社で、神式の神事を行う。                              │
│      │5月     │ │浜松県参事石黒努、秋葉神社から三尺坊を可睡齋へ移動させた旨の諭告を発する。参詣者が大きく減ったことによる。                  │
│      │11月14日│ │秋葉神社神殿炎上。                                          │
│      │12月    │ │奥院不動堂の調査。                                          │
│1874  │1月     │ │奥院不動堂の仏器・仏具を可睡齋に引き渡した。                │
│1879   │        │ │可睡齋で、三尺坊威徳大権現の堂舎建立。                      │
│1880│           │ │秋葉寺再興。聖観音は秋葉寺に渡すも、三尺坊は可睡齋に留め置く。│
│    │            │L│神社側の主張  秋葉権現というのは秋葉山という山にあるからである。祭神は火伽具土神で太古より鎮座している。山麓18郷は「愛宕」という。「三代実録」には、「貞観16年5月10日正六位上岐気保神従五位下」とあり、「遠江風土記伝」には、「山香郡岐気保神」とあって、山香郡廃して周知郡となり、岐気郷転じて気田郷となった。永仁年中三尺坊という修験者がきて、神職であった祖先らも修験道になって大善院加納坊というごとく院号を唱えるようになった。加納坊は浜松秋葉村に移転した。家康より下された判物にある別当光幡は大善院のことで、光幡の子光達は早く死去したため、留守居に曹洞宗の僧を頼んだところ、その僧が謀を巡らして書類を盗み出して別当職になった。その後秋葉寺として存続している。                                                    │

 以上のような経過から、現在秋葉山の山頂には秋葉神社が祀られ、中腹には再興された秋葉寺があり、神仏分離の際に秋葉寺から移された三尺坊を祀る可睡齋(秋葉総本殿)が袋井市にある。それぞれが自らの正統性を主張しているが、秋葉神社の説明は牽強付会といわざるを得ない。

 秋葉信仰は、三尺坊に対する信仰であって、それ以外ではない。

《参考文献》
    田村貞雄監修『民衆宗教史叢書31 秋葉信仰』(雄山閣、1998年 )
    安丸良夫『神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈』(岩波書店、1979年)
    静岡県教育委員会『静岡県歴史の道 秋葉街道』(1996年)
  その他の文献については、上記の文献に紹介があるので、それを参照していただきたい。

 

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浜松ベ平連の記事(続)

2024-04-09 19:42:00 | 近現代史

 なぜ浜松ベ平連の記事を載せたのかを説明すると、昨日から『社会運動史研究』5を読んでいて(『社会運動史研究』の1と2は購入して読んでいるのだが、それ以降の特集はあまり関心を抱かなかったので買っていなかった。すると、ある方から5号を読んだ感想を読みたい、との仰せがあり、急遽購入した次第である)、そのなかに市橋秀夫の「殺されない手立てを身をもって示す」という、北九州市の反戦青年委員会の活動を紹介したものがあった。

 そういえば、私が若い頃、反戦青年委員会というのがあったこと、彼らが浜松ベ平連のデモにも参加していたことを想い出したからだ。先の吉川さんの文にも、反戦青年委員会への言及がある。反戦青年委員会のメンバーが『前進』に言及しているから、中核派系かも知れない。

 考えてみれば、反戦青年委員会という組織があったことは知っていたが、ほとんど接触はなかった。北九州市の反戦青年委員会の活動に関しては資料があり、またその担い手からもインタビューできたそうだが、私が今まで調べた限りで言うと、その類いの資料もなく、またどういう人が反戦青年委員会に加わっていたのかもまったくわからない。

 私は、高校生の頃、浜松ベ平連の一員でもあった。高校卒業後、上京したので、浜松ベ平連のその後についてはまったくわからない。

 1960年代後半の静岡県におけるベ平連のような市民運動も、歴史研究の対象となりうる。誰かやらないかしら・・・

 

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浜松ベ平連の記事

2024-04-09 19:22:20 | 近現代史

 すでに亡くなられた吉川勇一さん。ベ平連の資料をネットにあげて、資料収集に励んでおられた。私は、吉川さんに2度、連絡した。ベ平連は浜松にもあったし、磐田にもあった、と。すると、吉川さんは調べたらしく、「浜松ベ平連の講演会に参加し、その後のデモにも参加した」という連絡。私は確か、ベ平連ニュースか何かにそのことが掲載されていた記憶があると連絡した。吉川さんは、『週刊アンポ』第10号(1970年3月23日)をさがし出して送ってくれた。そこには、吉川さんの絵と文があった。文だけを紹介する。

第三日曜日。午後一時。新川公園。これが浜松べ平連の定例デモの集合時間と場所だ。今日は二月二十二日の第三日曜。ただし、夕刻からべ平連主催の市民講演会があったため、特別に出発地は会場の浜松市民会館玄関前に変わり、時刻は講演会集了後の八時であった。

 「核、ミサイル・ナイキ撤去――浜松べ平連」の横断幕。浜松べ平連の緑の旗。それに講演会からデモに引続き参加した浜松市反戦青年委員会の青旗。プラカードはなかったが、その代わりに夜のため手製の四角いアンドンが六つ。「誰でも入れるデモ」「アンポをつぶせ!」「ニャロメ」「デモに入ろう」などと四面に書いてある。ほかに紙コップでつくったキャンドル・トーチが八つ。それぞれローソクの火がともる。京都べ平連からの特別参加によるギターを含めてギター三台。それに反戦の若い闘士の白ヘル、「反戦」「反帝反スタ」「反戦高協」などと記入のあるもの十個。これがデモの小道具。人数は約百人。三列縦隊を組んで夜の浜松市内へとくりだす。先頭部分はギターにあわせて「ウィ・シャル・オーバーカム」の歌、最後尾の反戦は十人でジグザグ開始。「アンポフンサイ! ナイキテッキョ!」

 気がつくと先頭にパトカー。「浜松8 フ・・9」のナンバープレート。ドアに静岡県警の文字。金筋帽をかぶった太った警官が後のガラスごしにデモをにらみつけながらマイクを握って何やらワメク。デモの周囲に私服警官。七人、八人、九人、十人。アア、どうして日本全国、どこへ行っても私服ってすぐ判っちゃうんだろう!

 やっとパトカーのスピーカーが何いってるのか聞こえた。「……この交差点はテンマ町交差点。交通ヒンパンなのでデモ隊は信号と警官の指示に従って行進しなさい。オイ、デモの後部の白ヘルの諸君、ジグザグするな!」

 赤い懐中電灯をもった白ヘルの警官がかけつけて反戦のジクザグをおさえようとする。白ヘルと白ヘルの対決。でも一対十じゃちょっと無理。ジグザグはつづく。前の方は「オー、ディープ・イン・マイ・ハート……」

 「べ平連のデモ隊が通過します。後部は反戦青年委員会の労働者です」これはデモ側のスピーカーじゃない。なんとパトカーの放送。親切にも紹介してくれてんのかな。「隊列は三列! オイ三列だ! 幅をチヂメナサイ!」あっそうか。デモに怒鳴る前に沿道の人に怒鳴る対象を紹介するわけだな。

 「ウィ・シャル……」の節でたちまち即興の替え歌「パ・ト・カー・カーエレ、パ・ト・カー・カーエレ……オー・ミーンナノ・チーカラデー・パトカー・カーエーレ!」

 デモは左折。有楽街のネオンのある繁華街へ入る。いつのまにか「反戦」の文字の入った浜松べ平連の小旗がもう一本先頭にふえている。「ナイキ基地を撤去せよ。自衛隊基地を粉砕するぞ!」「ニッティの海外侵略をソシするぞ!」(このへんになると聞いてもちょっと判んないんじゃないかな)

 隊列は十列ぐらいに拡がっている。しまりかかったシャッターが開いて「ほていや浜松センター」のスーパーマーケットから店員が顔を出す。何人も出てくる。沿道に人が多くなる。べ平連の紹介のビラが配られる。「アンポ・フンサイ! ナイキ・テッキヨ!」のかけ声が一段と大きくなる。右側に浜松東映――ただ今「念仏三段切り」と「組長と代貸」上映中。シャンボール――焼立てフランスパンただ今到着。「核ミサイル・ナイキ基地を撤去するぞ!」 左側にステレオ・イケヤ――コロムビア歌謡大行進の看板。前を浜松べ平連の大行進。後方から「ナイキ撤去!」前方から「デモ隊は幅をチジメナサイ!」これもステレオだ。

 「万国博を成功させよう」のポスター。ああインターナショナール、我らがもの。

 浜松は楽器とウナギの名産地。ヤマハ・ピアノの大きなビルの角を右へ曲ると大通り。デモは右側行進に移る。ここだけどうしてかな?と思って道の向こう、左側をみると「おもちゃの王国ヤマタカ」の看板。その前のバス停に制服の自衛隊員が三十人ほどたむろしてる。そうか、ここから基地ゆきのバスが出るのか。

 冬物一掃バーゲンセール、マギーと菓子のこぎくの間を右に曲がる。よくゴチョゴチョ曲るデモだ。もうどこがどこやら方角はまったく判らない。どうも見たことがある街だ。キョロキョロ見まわす。鯛めしやの看板。右の看板は「組長と代貸」ああ浜松東映だ。鶴田浩二さん、若山富三郎さんまたコンバンワ。

 驚いた。同じところを二度通っているのだ。こんなデモはじめてだ。たしかにこれは人間の渦巻か。

 両側は商店街のアーケードで、ジュラルミンの雨おおいが張り出していて、シュプレヒコールの声がよくひびく。「アンポ・フンサイ、ナイキテッキョ!」

 花と園芸、フロ一リストないとうからおばさんが顔を出す。ビラが渡される。べ平連は花で武装する、か。

 「ヤッテルナー、カンバレヨー!」とフラフラの酔っぱらい二人、レストラン・ウィーンから出てくる。手をふって暗がりに消える。そこを左折。道は広くなり、両側の歩道には、はぼたんが植わり、石膏の彫刻が並んでいる。浜松みゆき座――「十七才」上映中。あたし十七才よ。そおお。キャーッ。女の子が持っていたアンドンが風に飛ばされてコロコロころがってゆく。それを追いかける十七才。

 宝塚劇場――八日封切「蝦夷館の決闘」。「テッテテキに闘うぞおー!」(ハテ、つげ義春流シュブレヒコールか)「全軍労のストと共に闘うぞー!」中央劇場――「激戦地」上映中。

 連尺町を左折。「オソレハシーナイ、今日コソワーレーラー……」左側にパチンコ・サカエホール。「今日は第三日曜日」の看板。ハテ? パチンコ店もべ平連定例デモに協力か? もう一度よくみてみる。「毎月第三日曜日は家庭の日です。この運動に全面的に協力する為、家庭の日に限り、営業時間を左の如く致します。午前一〇時~午後八時まで。浜松青少年協議会。浜松遊戯場組合」ナルホド。マイホームのパパさん、早くお帰りなさい。今日は家庭の日です。アア、涙ぐましき家庭よ。遊戯場組合の「全面的御協力」によって、日本の家庭は安泰、健全です!

 その隣りにまた看板。「青少年の非行をなくしましょう。どんな小さな暴力も見逃さず届出致しましょう。浜松中央警察署。浜松市青少年補導センター。浜松遊戯場組合」ここでもうるわしき三者の協力。「大きな暴力――戦争と侵略は見逃しましょう!」

 また左折。「伝馬町交差点」 ハテ、ここも前に通らなかったかな?「アンポ・フンサイ!」パトカーが何かいっているが聞こえない。

 フランキー堺の「極道ペテン師」上映中の日活前を過ぎると突然バラバラと私服が車道上へ飛出してきて、ジグザグを続ける反戦青年委のグループに襲いかかる。なんと浜松の私服は警棒をもっている! 双方いり乱れて、路上でゴチャゴチャになる。べ平連のグループの中の一人が写真機を構えると「キサマ、何をするかッ!」と歩道上の私服がそのカメラマンにつかみかかる。逮捕者は出ないが、列はメチャメチャでデモ隊はギターを中心にダンゴのようなかたまりとなって歩く。何人かは肩を組んでアンポ・フンサイと叫びながら踊り歩きまわる。とにかくこれは面白いデモだ。ダンゴ・デモ!。

 ようやく向こうに国鉄浜松駅がみえてくる。左側に浜松郵便局。その手前が新川公園。ここが今日のデモの解散地。友愛の泉という石垣から水がチョロチョロ出てる。「オー、みーんなのー、チーカラで、勝利の日ィまァーでー」 もうあんどんや紙コップのろうそくはすっかり消えている。

 公園で輪をつくって総括集会。浜松市反戦の挨拶。「ひさびさのべ平連集会で百名ものデモが出来たが、このことだけでも意義があったと思います。この量を質へ転換させれば……」 反戦の部分からイギナシの声。反戦青年委の諸君は、今日のデモの質には御不満らしい。

 シュプレヒコール、「ナイキJ撤去! われわれは最後まで闘うぞーッ、闘うぞーッ、闘うぞーッ……」闘うぞーッ!は六回くりかえされる。さらに肩を組んでインターの合唱。これで解散。

 反戦青年委の人が怒鳴る。「だれか『前進』の縮刷版忘れた人いませんかー。いたらとりにきて下さい。預ってます」 「半額なら買うぞ!」の声。

 ガヤガヤと散る。パトカーはまだ道路上で待っている。そのあとに「浜松市反戦青年委員会」の大旗、旗竿ごと忘れもの。

 さて最初にも書いたように、浜松の定例デモは何月第三日曜。つぎは四月十九日。浜松市および近郊の読者のみなさん、お忘れなく。

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考えなければならないこと 知らなければならないこと

2024-02-25 19:58:22 | 近現代史

 1月6日に緊急入院した母は、2月7日に亡くなった。100歳であった。長寿だから大往生ではないかということばが、ある種の慰めとして私にかけられたが、私にとって母は、私と同じ世界に存在し続けていて欲しい存在であった。だからそういうことばは、まったく慰めにならなかった。

 母は、姉の住む関東近県にいたことから、葬儀が20日となった。死者が多すぎて、火葬ができなかったのだ。葬儀が終わり、母の遺骨をこちらにもってきたが、私にとってはつらいことで、今も心は沈鬱である。だからなにごとかを書こうという気が全く起きなかった。

 いまこのブログを書く気になったのは、この文を読んだからだ。その中の、

歴史学そのものが、人間の足跡と尊厳を簡単に消すことができる暴力装置であることへの自覚の希薄さがある

 このことばに、私は強い衝撃を受けた。歴史学の末端に連なっていた(過去形とする、おそらくもう研究の現場には行かないから)私は、歴史学が「暴力装置である」という指摘に唸った。

 歴史叙述は、史料をもとにした事実に基づき厳密に行われなければならない、しかしその時に、知っていなければならないことを知らないままに叙述してしまえば、それは「暴力装置」となる。

 たとえば、戦後補償に関して、ドイツはきちんと謝罪と補償をおこなった「優等生」であるかのように書かれる。その言説は、最近もある新聞でもみかけた。だが、私はドイツの戦後補償は、純粋に反省的なものではなく、政治的な色彩が濃いものとみていた。ドイツという国民国家を、敗戦から再び立ち上げていくためには、周辺諸国や民族に、「一定の」(一定の、という限定をつけなければならない。ナチスドイツが行ったすべての蛮行にたいしてドイツは頭を下げたわけではない)謝罪と補償が必要であったのだ。

 そしてその言説は、今や「暴力装置」と化している。

 私はドイツの学者・ハーバーマスが、イスラエル国家によるパレスチナ人へのジェノサイドを批判せず、それを支持するかのような発言をしたことを知って驚いた。ハーバーマスの著作は何冊か読んでいたからだ。

 ハーバーマスらの言動のその背景を、私はこの藤原辰彦氏の文で知った。藤原氏は、戦後ドイツが、ユダヤ人国家であるイスラエルに謝罪し賠償を行い、あたかも戦争犯罪を大いに反省しているかのようにみせながら・・・ここで藤原氏の文を掲載する。 

1952年には、イスラエルと西ドイツの間で「ルクセンブルク補償協定」が調印され、西ドイツはイスラエルに人道的な補償として30億マルクを物資として支払うことになる。

 それは、西側社会への復帰を急ぐ西ドイツが「人道的な国家」へ生まれ変わったことを世界に示すとともに、イスラエルにドイツの工業製品を届けることによって戦争で荒廃したドイツ経済復興も可能にした。その物資の中には、「デュアルユース(軍民両用)」という形で利用される軍事物資が入っていた。

 それだけでなく、西ドイツ首相アデナウアーは、1957年から、国交不在のなかでイスラエルの軍事支援を極秘で進めた。機関銃から高射砲、対戦車砲、戦車、潜水艦を含んでいたともいわれる。これはドイツ憲法に違反するが、明るみに出るまで長く続けられた。

 「イスラエルは西ドイツとの接近と和解によって中東紛争を生き延びることができた」といわれる。つまり、西ドイツから送られた軍事物資によってイスラエルはパレスチナの人々の家を奪って占領し、人々の命を奪った。イスラエルの軍事化に貢献することは、西ドイツ側にとっても軍需産業を再興させ、経済を復興させるという目的にかなうものだった。日本の「朝鮮特需」とも重なるものがある。

 シオニズムによるパレスチナ人迫害の背後に、ドイツがいたのだという事実、それを知らずに、ドイツを戦後補償の分野で「善人」として扱うことは、すなわち加害の側に立つことになるのだ。

 私はこの藤原氏の文に、多くのことを教えられた。まさに無知を知らされた。学ぶべきことがたくさんあることを教えられた。

 この文を公表してくれた『長周新聞』にも感謝したい。

 なお『世界』3月号に掲載されている高橋哲哉氏の「ショアーからナクバへ、世界への責任」は必読である。「人間の尊厳」を基軸にした論考は、普遍性をもった批判となっている。

**********************************

 母は、私が高校時代から様々な社会的な活動に参加しても批判めいたことは一度も言わなかった。たとえば、かつての大阪万博の時、大阪城公園で開かれた反戦万国博に参加したいというと、交通費をだしてくれた。ホテルに泊まる金はなかったので、テントの椅子の上で寝た記憶がある。母には感謝しかない。いずれ私も「そちら」にいく、そのとき感謝のことばを直接贈るつもりである。

 

 

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「強制連行」は「政治的発言」か

2024-01-28 10:39:28 | 近現代史

 大正期や昭和前期の新聞を繰っていくと、渡日してきた朝鮮人の記事をたくさんみつけることができる。その多くは、朝鮮人労働者への差別事件、朝鮮人がいかに低賃金で働かされているか、日本人労働者との乱闘事件などなど。

 それらのことが報じられる現場は、道路建設工事などの諸工事、鉱山、繊維産業などである。それらを地図に落としていくと、県内各地の様々な現場で朝鮮人が働いていたことを示している。日本のインフラ建設や労働現場が、いかに朝鮮人労働者に依存していたかが示されている。

 さて、戦時期を除いては、かれら朝鮮人労働者は、日本の植民地支配の影響下に出稼ぎに来ざるをえなかった人びとである。その点では、やむをえずの渡日であるけれども、自主的に来たといってもよいだろうと思う。ただし、日本帝国政府は、朝鮮人渡日に関しては、自由に来させたわけではない。日本国内の労働力の需給状態に応じて過剰の場合は渡日を制限したりしてきた。

 しかし戦時期に渡日してきた場合は、まったく異なる。日本の男性が兵士としてアジア太平洋各地にでていったことから絶対的に労働力が不足した。日本帝国政府はその不足を補うために、朝鮮人を国内の基幹的な労働力としてつかうために、朝鮮人の自由な渡日ではなく、強制的に連れてこようとした。その方法は募集、官斡旋、徴用という、ある種の法的な外皮を伴って行われた。しかしそれらは、私が現地や日本で調べたところ、実質的な強制であった。したがって、戦時期の朝鮮人が労働力として日本に動員されたことを、強制連行といっても史実を否定することにはならない。

 私自身は論文その他で強制連行をつかわない。というのも法的な外皮があったことを重視して労務動員とするが、しかしそこには必ず強制的なという形容詞をつける。つけないと史実にはあわない。強制連行という語句をつかうか、それとも私のように強制的な労務動員とするかは大きな問題ではなく、双方ともそこに重大な強制性があったことを前提としているのである。

 さて、群馬県の公園に、戦時下の強制労働の結果亡くなられた方々を追悼する碑があり、今それが撤去されようとしている。追悼集会で参加者が「強制連行」ということばを発したことが「政治的」であったとして、それを根拠に、群馬県も、裁判所も一致して「政治的」な言動があったとするのである。

 しかし、先にも記したように、実態として、戦時下の朝鮮人の労務動員は、強制連行であったことは事実である。事実を事実として発言したことによって、その碑が強制的に撤去されるというのは、史実に対する公権力の介入であり、史実の否定につながる。裁判所がそれにお墨付けを与えたこと自体も、私にとっては驚きであったが、さらに群馬県がその碑を強制的に撤去するというのも驚きである。

 こういう理不尽なことを少数のネトウヨと公権力がタッグを組んで行うということに歯止めがかからない事態を私はたいへん憂えている。

【追記】碑は、1月29日に強制的に撤去されるという。ネトウヨが騒ぎ、それを自由民主党という金権政党がうけ、その結果日韓友好をうたった碑が破壊されるのだ。ハンギョレ新聞記事がその経緯を記している

 

 

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社会民主党宣言

2023-12-30 14:16:08 | 近現代史

 1901年、片山潜、幸徳秋水、安部磯雄ら6人によって結成され、即日禁止された社会主義政党。その宣言を読むと、とても新鮮な感じがする。

 とりわけ、ウクライナでも、ガザでも戦争が行われ、多くの人が殺傷されている。とりわけガザでは、イスラエル軍によるジェノサイドはあまりにひどく、時にイスラエルは民間人の犠牲を出さないようにしているかのような虚偽を堂々と発表しているが、そういうことをするイスラエルには、ただただあきれるほかはない。ナチスドイツによって集団殺戮された側であるのに、ナチスドイツと同じようなことをしている。

 そしてアメリカはじめ、世界は戦闘を止めようとしない。だからもう、世界中からの軍備全廃を目的とするしかない、その意味で1901年の社会民主党宣言は、先見の明があるといえよう。そして日本国憲法も、である。

如何にして貧富の懸隔を打破すべきかは実に二十世紀に於けるの大問題なりとす。彼の十八世紀の末に当り仏国を中心として欧米諸国に伝播したる自由民権の思想は、政治上の平等主義を実現するに於て大なる効力ありしと雖も、爾来物質的の進歩著しく、昔時の貴族平民てふ階級制度に代ゆるに富者貧者てふ更に忌むべき恐るべきものを以てするに至れり。抑も経済上の平等は本にして政治上の平等は末なり。故に立憲の政治を行ひて政権を公平に分配したりとするも、経済上の不公平にして除去せられざる限りは人民多数の不幸は依然として存すべし。是れ我党が政治問題を解するに当り全力を経済問題に傾注せんとする所以なりとす。(中略)
 1 人種の差別政治の異同に拘らず、人類は皆同胞たりとの主義を拡張すること。

 2 万国の平和を来す為には先づ軍備を全廃すること。

 3 階級制度を全廃すること。

 4 生産機関として必要なる土地及資本を悉く公有とすること。

 5 鉄道、船舶、運河、橋梁の如き交通機関は悉くこれを公有とすること。

 6 財富の分配を公平にすること。

 7 人民をして平等に政権を得せしむること。

 8 人民をして平等に教育を受けしむる為に、国家は全く教育の費用を負担すべきこと。

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「戦略村」

2023-12-14 12:53:53 | 近現代史

 『週刊金曜日』で、本田雅和氏が、本多勝一氏がかつて取材したベトナム解放戦争のあとを追跡している。

 今週は、『母は枯葉剤を浴びた』で高名な報道写真家の中村梧郎氏を取材している。そのなかでこういう記述がある。 

 南ベトナム解放民族戦線の戦士らと、「一般農民」を切り離して接触させないよう、農村の民を有刺鉄線や竹槍で囲った人工の村に強制移住させ、集中管理する「戦略村」をあちこちに建設した。

 この「戦略村」は、すでに日本軍が「満洲」で行っていた。「満洲」でのそれは「集団部落」と称した。『満洲共産匪の研究』第二輯に詳しく記されている。「集団部落」の外は、「共産匪」が跳梁するところであるとして、無差別攻撃が展開されるのである。

 いずこの侵略軍も考えるところは同じである。しかし言うまでもないことだが、そのような「戦略村」、「集団部落」を建設しても、侵略軍は必ず追い出されるのである。

 そしてアメリカは、枯葉剤を広汎に撒布して、ベトナムの大地を汚し、そこに生きる人民に多大な犠牲を強いたにもかかわらず、それに対する責任を負わないばかりか、被害に対する補償についても押し黙るのである。それは侵略をこととするどこの国家にも共通するところである。

 ベトナム戦争は終わっているけれども、枯葉剤などの被害は続いている。アメリカの蛮行を、だからこそ現在も追及する必要がある。「悪行」は「悪行」として、その「悪行」を行った「アメリカ帝国主義」を忘れてはならない。

 

 侵略

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イスラエルと新政府軍

2023-12-03 17:02:55 | 近現代史

 イスラエルが、ガザ南部にも激しい攻撃を行っているという。イスラエルは、ガザや西岸地区をイスラエル領にしてしまおうとしているようだ。それは、パレスチナを含めたイスラエルが、神がユダヤ人に約束した土地だという宗教上の理由もあるのだろう。

 しかし、ユダヤ人がこの地から去って行ったのは、2世紀、その後多くのアラブ人がそこに居住してきた。第二次大戦後、強引にその地がユダヤ人に渡され、そこに住んでいたパレスチナの民はイスラエルに居住地を奪われた。

 イスラエルは、Gaza地区や西岸地区からパレスチナ人を追い出すこと、そのためには、イスラエル建国の際に行われたパレスチナ人虐殺を繰り返そうとしている。

 ニュースを見ると、狭い狭いGaza地区に砲弾が撃ち込まれている。イスラエルにとって、そこに住むパレスチナ人が死のうと、ケガをしようと一切顧慮しない。ひどい!!

 だがそういう歴史は、日本にもあった。戊辰戦争における最大の戦いは、会津戦争。松平容保の会津藩は、領民を守るために新政府軍(この軍隊は、テロを繰り返していた薩摩藩、長州藩を主体とする軍だ)に対して戦闘を避けるために「恭順」姿勢を示した。しかし新政府軍はそれを認めず、徹底的に会津藩を攻撃した。会津若松城には会津藩士と多数の領民がいた。

 新政府軍は、そこに大量の砲弾を撃ち込んだ。会津藩が完全に敗北するまで、新政府軍は一切の交渉を受け付けず、ひたすら冷酷に攻撃を続けたのである。

 イスラエル軍によるガザ攻撃は、テロリストに率いられた薩摩、長州を主体とする新政府軍による会津攻撃と軌を一にする。

 新政府軍はそのまま維新政権となった。彼等がつくりあげた大日本帝国による国内外の民衆に対する無慈悲な仕打ちが、今後のパレスチナ人にも降りかかるのだろうか。

 

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ベトナム戦争を生き抜いた女性たち

2023-11-09 21:19:59 | 近現代史

 私にとって、「ベトナム」は輝かしい存在だ。とりわけ「ベトナム人民」と書くとき、私は大いなる敬意を感じる。アメリカ侵略軍と戦った「ベトナム人民」は、高校生の頃からベトナムが解放されるまで、私にとって輝かしい存在であった。「ベトナム人民」は、アメリカに勝利したのだ。

 ベトナム反戦の渦の中に入っていた私にとって、本多勝一の『戦場の村』その他の本は、いつも傍らにあった。今も、もちろんある。私の青春を象徴する書物である。

 『週刊金曜日』が、「「本多勝一のベトナム」を行く」を連載している。本田雅和が、本多勝一が訪ねたところに行き、本多が取材した人びとに会うという企画だ。今週号はその2。

 ベトナム解放戦争を闘った女性たちを訪ねている。ベトナム解放戦争では、北でも南でも、女性たちが果敢に闘った。北では空襲する米軍機に銃で応戦していた。南では、今週号で報じられているように、女性たちも粘り強い活動を繰り広げていた。

 べーさん。本多が『再訪・戦場の村』で書いた女性。今、その本は実家の書庫にあるので見られないが、本多は「ルッキズムとジェンダーバイアスの色濃い表現で讃えている」そうだが(読んではいるが、その内容をもう完全に忘れている)、本田は、べーさんに本多が書いた個所を読み上げ、通訳の鈴木勝比古がそれを翻訳したとのこと。べーさんは、「大笑いして喜び、若い頃の写真を出して」きたという。

 私は、この場面を見たかった。意識として私は、闘っていた「ベトナム人民」の傍らにいたという自覚を持つ。「ベトナム人民」は、私にとって「同志」である。

 べーさんが、元気で幸せに生きておられることを、私は心から喜びたい。

 「ベトナム人民」は、思春期の私を鼓舞し、正義とは何か、平和とは何かを教えていた。もちろん、私だけではなく、私の周囲には「ベトナム人民」と連帯する人たちはたくさんいた。

 『週刊金曜日』のこの企画を、私は大いに歓迎する。

 もう一度、本多勝一の本を読み直そうと思う。

 

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Gazaでの虐殺

2023-11-09 07:28:38 | 近現代史

 今回のイスラエルによるGazaでのパレスチナ人虐殺は、イスラエル建国時から続いていることだ。

 『世界』12月号は、「ガザ 極限の人道危機」を特集としている。私は、イスラエルの建国時にいかなることが行われたか、そしてそれ以後パレスチナ人に対してイスラエルがどのような迫害を続けてきたかを知っているが故に、イスラエルの蛮行には、大いなる怒りを抱いている。

 建国時にいかなることが行われたのかを、『世界』では酒井啓子さんが書いている。

「イスラエルがパレスチナの地に建国されたとき、イスラエル軍はそこに住んでいたパレスチナ人住民に対して、15000人以上殺害し、531の村を地図の上から抹殺し、80万人以上を難民化させた。戦闘では、住民をあえて逃がすように誘導しては国外に放り出し、家の鍵を握りしめて逃げ出した人々は、その後二度と自宅に戻れなくなった。」

 ユダヤ人を迫害してきた国際社会は、このイスラエルの蛮行を許した。

 だから、パレスチナの人たちはこのように考える。「祖国を、家族を置いて逃げ出すだけじゃだめなんだ、住んでいた居場所に居続けなければ、自分の大切なものは守れない」と。

 今、イスラエルの空爆などにより、ガザに住む人々が 大量に虐殺されている。しかし、 パレスチナ人は逃げない。なぜか。 逃げたらそこの土地がイスラエルによって占領されてしまい、そこにイスラエル人が入植し、二度と戻れなくなるからだ。

 酒井さんは、こう書いている。

「1920ー30年代、ユダヤ人迫害が吹き荒れる欧州から逃れて、パレスチナの地に移住してきたユダヤ人のなかには、そこに住民が住んでいたとは知らなかったという人たちが少なくない。以降、イスラエルの歴史はいかに先住民たるパレスチナ人を追い出し、殺戮し、いなくならせて、ユダヤ人の土地を安全に確保するかを目的に紡がれてきた。建国時に逃げなかったパレスチナ人には、仕方がない、イスラエル国籍を与えてイスラエル人とするしかなかった。イスラエルはユダヤ教徒の国(ホームランド)であるとともに、「中東唯一の民主的な国」を標榜するからだ。だが実際には、ユダヤ系イスラエル人に比較して劣悪な環境に置かれ、早くいなくなればいいのに、という視線を浴びながら生きるしかない。」

 イスラエルは、病院であろうと、学校であろうと、国連施設であろうと、あるいは救急車であろうと、躊躇なく爆弾をそこに落とす。イスラエルは、パレスチナ人はいなくなればよい、と確信しているからだ。子どもであろうと、老人であろうと、女性であろうと、イスラエルは殺すことをためらわない。パレスチナ人はいなくなればよいと思い続けてきたし、そのために驚くべき迫害を行ってきた。

 もちろんすべてのイスラエル人、ユダヤ人が、そうしたイスラエル国家の行動を支持しているわけではない。だがイスラエル国民の多くは、その国家を支えている。

 アメリカに住むユダヤ人学者であるジュディス・バトラーは、こう書いている。

「現代のメディアは、多くの場合、パレスチナの人々が何十年もの間、爆弾テロ、恣意的な攻撃、逮捕、殺害といった形で 生き抜いてきた恐怖をつまびらかに報じていない。」

 その通りである。だから、ことさらパレスチナ人の抵抗を「悪」とみなす言説がはびこるのだ。

 バトラーは、こうも書く。

「平等と正義がなければ、そして、それ自体が暴力によって成立したイスラエルという国家が行っている国家暴力に終止符を打つことがなければ、未来を想像することはできないし、真の平和ー不平等、無権利、レイシズムの構造をそのまま温存した正常化の婉曲表現としての「平和」ではないー からなる未来を思い描くこともできない。だが、そのような未来は、イスラエルによるあらゆる形態の国家暴力を含む、すべての暴力を名指しし、描写し、それに反対する自由を維持することなくしては実現できない。そしてまた検閲や犯罪化、あるいは悪意を持って反ユダヤ主義だと糾弾されることを恐れずに行わなければ実現できないのである。私が望む世界とは、植民地支配の常態化に反対し、パレスチナの自決権と自由を支持する世界であり、自由、非暴力、平等、そして正義の中で共に生きたいという、これらの土地の全ての住民の根底にある希望を実現する世界である。」

 とにかくイスラエル国家の暴力を止めなければならない。

 

 

 

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パブリックメモリー

2023-10-01 19:51:30 | 近現代史

 以前、岩波書店の『思想』を定期購読していた。最近、恐らく読まないだろうと思うBNは大胆に捨てた。

 残されたなかの一冊は、「パブリックメモリー」の特集、1998年8月号である。

 巻頭は、T・フジタニの「パブリックメモリーをめぐる闘争」である。それを紹介しながら、少しコメントを加えたい。

 パブリックメモリーは「公共の記憶」と訳される。

 「公共の記憶」という場合、官製の、国家権力の関与のもとに確定されたものという認識がある。フジタニは、こう記している。

 「公的な記憶は、交渉や闘争、排除やあからさまな暴力行使といった過程を通じて生産されるのである。国民、人種、階級、ジェンダー、性、その他さまざまな差異の指標が共謀して、公的な記憶に足るだけのもっともらしさと価値をもったものを形成する。」

 そしてこう記す。

「過去は、 決して、もともとの、すなわち政治化する以前の形では、復元されないということであり、また、さまざまな記憶というものは、個人的なものでもあれ、公共のものであれ、つねにすでに、さまざまな政治的な力と物質的な痕跡によって、 媒介されているということなのである。こうした事柄を自覚することによって、記憶の仕事に従事するものは、いままで記憶の産出に関与し、公共圏を支配してきた利害関係の正体を明らかにすることができる。」

 つまり記憶というのは、すでに政治の力によってなんらかの変形を被っているのだ。歴史を研究する者は、記憶の産出に関与する者である。であるが故に、常に記憶を問い続けなければならないし、また新たな記憶を産出しつづけなければならないし、記憶すべきものを記憶として提示しなければならない。

 フジタニは、こうも言う。

「記憶の作業者はまた、抑圧され周縁化された過去の回復にも取り組まねばならない。」

 記憶は、今も闘争の焦点となっている。国家権力は、不都合な記憶を記憶にとどめないように、さまざまな手段で攻撃を加えている。

 消されてはいけない記憶を、消されないように、日常的に産出し続けなければならない。それが歴史研究者の使命でもある。

 「公共の記憶」とは、国家権力によって公認されるものではなく、人びとによってつくり出されるものでなければならない。

 

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江馬修『羊が怒る時』を読む(2)

2023-09-17 21:53:14 | 近現代史

 ところで浅草の観音堂が焼けずに残ったが、その時の状況を語った観音堂関係者と大尉、そして兄の会話が記されている。朝鮮人への恐怖感を喚起することにより、日本人は殺気立つのである。

・・・観音堂がもう大丈夫となると、それまで緊張しきっていた群衆一時に気がゆるんできました。見ると、あっちでもこっちでも一時に疲れが出て、正体もなくごろごろ眠っているという始末です。これには私、随分心配しましたね。

(中略)

その時ーそれはもう二日の晩の事ですから、ー私はフト朝鮮人の事を思い出しました。そしてこれを利用するに限ると思いましたので、いきなり大きな声で、(今朝鮮人が四、五十人観音堂を包囲して、爆弾や石油を持って焼き払おうとしているから皆さん気をつけてください、)と呼ばわって歩きました。」

「なる程、それはうまい所へ気がついたもんだ、」と大尉は感心したように言った。然し、もしこの場に刑事がいたら、流言飛語を放った犯罪人として捕えるだろうに。

「ところが、この宣伝が実によく利きましてね。気のゆるんでいた群集が一斉に生気づいて、殺気だってきましたよ、そして朝鮮人狩りが始まりました。」

「で、実際に朝鮮人がいましたか、」と兄がきいた。

「ええ、いましたとも。何十人となく罹災者の中に隠れていましたよ。あいつらときたらとてもずうずうしいんで、石油缶を前に置いてぼんやり火事を見てやがるんですからね。」

「ふむ、良い度胸だね、」と大尉が言った。

(中略)

「ふむ、」と自分はうしろの方にいて、心の中で呟やいた。「自分がもし神さまだったら、幾たりかの朝鮮人を犠牲にしてまでこんな建物を残させやしない。それよりもまずこの男から、罰してやるのに。(二四五~六)

 

 著者は、「朝鮮人狩り」を扇動した男が罰せられるべきだと考える。だがそうした認識を持つ者は、少なかった。そして、朝鮮半島から勉強に来ていた学生たちは、この蛮行の後、帰国していった。彼等は普通の日本人が行った蛮行を見、同時に無残に殺されるかも知れないという恐怖のなかを生きた。日本に住むことを峻拒せざるを得なくなったのである。

彼の同宿の友達は順々に本国へ帰ってしまった。彼等はそれぞれ専門の学校に籍を置いて、飴を売ったり労働したりして勉強を続けていたのであるが、今度の騒擾は彼等を奥底から恐怖させた。そして東京と勉強に見限って帰国させるようにしたのである。外の多くの朝鮮人がそうであったように。(二五〇)

 

 こうした事件の積み重ねが、朝鮮半島の人々の日本(人)観をつくってきたのである。著者は、ドイツから帰国した友人に話す。

・・今度の震災は歴史上稀なるものであるに違いない、」と自分は言った。「然しそれはそうであるにしても、それは不可抗な自然力の作用によって起ったことで、もとより如何とも仕方がない。運命とでも呼ぶなら呼ぶがいい。しかし朝鮮人に関する問題は全然我々の無智と偏見とから生じたことで、人道の上から言ったら、震災なぞよりもこの方が遙かに大事件であり、大問題であると言わなければならないと思う。(二五三)

「それにしても、」と自分は言葉を続けた、「今度の事件で自分が何よりも痛切に感じたのは、人間にとって、教養がいかに大切なものであるかという事だった。だって、あの騒ぎがいかに日本人一般が日常の教養に於いて浅薄であるかを暴露したようなものだからね。まったく、あの騒ぎの中で、僕は多少なりと理性を失わなかったものを周囲に一人だって見出さなかった。何の事はない、ひと度あの流言が毒風のように人々の頭の上を吹いて過ぎると、皆はもう正気を失ってしまったのだからね。(二五四)

 

 なぜ正気を失ってしまったのか。正気を失う日本人が、なぜ、どのようにして生み出されたのか、それが解明されなければならない。

 「羊の怒る時」という書名の由来は、文末のこのことばに発する。

 柔和なる羊を怒らすこと勿れ。羊の怒る時が来たら、その時は天もまた一緒に怒るであろう。その時を思って恐れるがよい。(二五六)

 さてこの「羊の怒る時」は、最初『台湾日々新報』夕刊に、一九二四年十二月から翌年の三月にかけて、一〇四回にわたって連載され、その後聚芳閣から出版された。大震災を経て、江馬は社会主義へと近づいていくのだが、関東大震災の体験は、書かなければならないものとしてあったのだろう。文中に、こういう記述がある。

 

・・実際に下町では朝鮮人を弁護したために殺された日本人が幾人かあったのだ。幸い自分は十年も代々木に住んでいて、大概の人々に顔を見知られていたのでそうした危険は殆ど無かった。それだけに自分は例え一般の反感を冒しても猶信ずる所を言わねばならなかったし、事実及ぶ限りはやったつもりでいる。後になって証明されたとおり、自分達の初台ではついに血を見ずに終った。その主なる理由の一つは、ここいらは概して教養ある人々 、所謂知識階級が多かった事である。正直な所、自分は社会主義者と同じように、この震災にあたって、所謂民衆なるものに失望した。民衆とは愚衆であるとの感を強くした。そしてまだしも知識階級を頼もしく思った。少なくも彼らは残虐から顔を背けることができた。(一六八~九)

 

 差別や偏見は、無理解から生ずる。誤った考えが広まり、それを民衆が受容するとき、事件は起こる。正確な知識が求められる所以である。知識人は、正確な知識を一定程度持っていた。だから「残虐から顔を背ける」ことが出来たのである。民衆が、正確な知識を獲得することは、いつの時代でも要請されるのである。

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江馬修『羊の怒る時』を読む(1)

2023-09-17 21:33:06 | 近現代史
 江馬修は、小説家である、『日本大百科全書』には、「小説家。岐阜県生まれ。一九一六年、青春の愛と苦悩を描いた長編小説『受難者』を発表、ベストセラーとなった。関東大震災後社会主義へ接近、ナップ系の一員として活躍。プロレタリア運動崩壊後故郷高山へ帰り、明治維新期飛騨に起こった農民一揆を描いた著者のライフワーク『山の民』(一九三八~四〇)を完成した。第二次世界大戦後は藤森成吉(せいきち)らと『人民文学』を創刊、自伝『一作家の歩み』(一九五七)などを書いた。ほかに『暗礁』(一九一七)『追放 』(一九二六)などの長編小説がある。」と書かれている。

 江馬は一九二三年の関東大震災を体験した。その体験を記したのが『羊の怒る時』である。舞台は関東大震災時の東京山の手である。構成は次のようになって
いる。

第一日
第二日
第三日
その後
という章立てで、関東大震災時の人々の「群集心理」がダイナミックに描かれている。第一日は激しい揺れ、屋外での生活、近隣住民との交わりなどが記されている。
 第二日から、朝鮮人の「暴動」という流言飛語が、著者を含めた地域住民のこころをつかみ取っていく様が描かれる。江馬には親しい朝鮮人がいるし、また一定の知識教養もあり、朝鮮人の「暴動」に関する流言飛語に一定の疑問を抱きながらも、地域住民と共に朝鮮人の「襲来」という恐怖の中に過ごす姿が描かれる。その姿はきわめて迫真的で、どういう心理的な変化が生じたかを克明に記していく。読んでいる者も、その場にいるような雰囲気を感じさせる筆力である。
 
第三日
 著者は、兄がいる本郷や浅草方面に行く。そしてその道中、自警団が朝鮮人取り締まりをしている現場にさしかかる。その場面。
 
・・・少なくとも自分と話し合った限りの人々は、前夜来の朝鮮人の騒動を少しも疑っていなかった。
(中略)
この時、武器や兇器を持つことは警察から堅く禁ぜられていたのであるが、誰もそんな布令に耳を貸さなかった。見るがよい、どこかの職人らしい若い男は刺子の火事装束をきて、大刀を抜身にして無暗に振まわしながらこうどなっていた。
「主義者でも朝鮮人でも出てくるがよい、片っぱしから切って斬って捨ててやるから。
「本当だよ。もし大杉栄なんかがいたら、頭を叩き割ってくれるがなぁ。
そう答える男は、金太郎のようにまさかりを肩に担いでいた。この外投槍を手にしているもの、野球用のバットや棍棒を持っているもの、ピストルを握っているもの、いわゆる百鬼夜行とはこの事かと思われた。まったく抜身の刀や刃物が夜闇の中でぎらりぎらりと閃くさまはあまり気持の良いものでは無かった。まして血に飢えかわくもののように、敵のあらわれるのをもどがしがって大言壮語もしているのを聞くことは。(一六五~六)

 朝鮮人の「暴動」を固く信じている群衆が、「敵」としているのは、朝鮮人、主義者、そして大杉栄なのである。そして江馬も、社会主義的な思想傾向をもつ。群集は、なぜ朝鮮人だけではなく、大杉や主義者らを「敵」として認識しているのだろうか。
そして「第二日」から「第三日」にかけて、著者が住む地域に朝鮮人が「襲来」してくるという流言飛語に恐怖を抱きつつ、地域住民が逃げ、隠れ、応戦しようとする姿が描かれるが、この個所を読みながら、あたかも大陸で日本軍が侵攻してくる際の中国や朝鮮の住民の動きであるかのように思えた。まさに戦場の様相である。

・・自分たちの初台ではついに血を見ずに終わった。その主なる理由の一つは、ここいらは概して教養ある人々 、所謂知識階級が多かった事である。正直な所、自分は社会主義者と同じように、この震災にあたって、所謂民衆なるものに失望した。民衆とは愚衆であるとの感を強くした。そしてまだしも知識階級を頼もしく思った。少なくも彼等は残虐から顔を背ける事ができた。(一六八~九)

 この本を読んでいると、庶民は流言飛語を何の疑問もなく受け容れてしまっているようだ。しかし一定の教養を持つ人々は、「・・・待てよ」というような懐疑をもつ。だからといって、その流言飛語を否定するまでには至らない。だが庶民の中にも、日頃朝鮮人との付き合いがある人は、流言飛語に巻き込まれない。差別は、「朝鮮人」とか「主義者」というような、属性(カテゴリー)で他者を見ることにより発生する。「属性」ではなく、固有名で他者を見、また交流することにより、固有名をもつ個人としての認識が生まれる。そこでは差別や偏見は消えるのである。
 ある女性の発言である。
 
「私は、日本の女ですけど、やっぱしこんな分らない事は無いと思いますわ、」と奥さんはやはり一生懸命に、「だって日本人だって朝鮮人だって同じ人間ですものね。それだのに、一昨晩の騒ぎの時なぞ、在郷軍人なぞ三十分おき位に私共へやってきましたね、ここいらに朝鮮人が住んでいるから気をつけろの、出してよこせのと脅かして行くんですよ。実は私危ないと思ったので、鄭さんと外の友達方を私の家に隠してしまいましたの。そしてあなた方にしろ私達にしろ国は変っても同じ人間ですもの、どんなにしてでも隠まってあげます、もし殺されるなら一緒に死にましょう、と言って慰めていましたの。だって
本当にお気の毒でしてね。」そう言って彼女は眼に涙を湛えていた。(一七七~八)
 
 朝鮮人虐殺が実際行われ、日本人の多くが虐殺する側にいたときに、そうでない人々がいたということは、一服の清涼剤である。
 
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