書庫に、本多勝一の『再訪・戦場の村』を出してきた際、その隣に並んでいた斎藤茂男の「取材ノート」全五冊をいっしょに持ち出した。
斎藤茂男も、今はもう亡い。共同通信社の有名な記者であった。今や、共同通信にそうした記者はほとんどいない。いや、共同通信だけではなく、どこの新聞社にもほとんどいなくなっている。残っているのはサラリーマン記者かヒラ目記者かどちらかである。こう書くと怒る人もいるのだろうが、それだけパンチのあるジャーナリストがいなくなったということである。
本多勝一のと斎藤茂男の本は、並べている。捨てるに捨てられないからだ。
斎藤の「取材ノート」の第一冊を読みはじめた。最初は下山事件である。斎藤の文章は歯切れが良くて読みやすい。そしてそこに欠くべからざる論点がきちんと記されている。Journalistとしては名文であると思う。読みはじめたら、最後まで読まなければならなくなる。
1949年7月に起きた国鉄総裁、下山定則が消えた事件、下山事件は今もって解決されていない。他殺説、自殺説が入り乱れているが、私は権力による謀殺説である。斎藤も同じだと思う。
事件がおきたことにより誰がもっとも利益を得たかということを考えるとき、回答は簡単である。時の権力者であるとしかいいようがない。
松本清張、佐藤一など、私もかつて下山事件に関するいくつかの本を読んだが、権力による謀殺であることは確かであると思っている。
『週刊金曜日』今週号の諸永裕司のプロフィールに、下山事件に関する本を出しているとのことを知り、図書館で借りることにした。
諸永も、斎藤茂男について言及している。斎藤の「メディアは構造を描け」という文章について考えたとのこと。
私が主に携わってきた歴史叙述も、煎じつめれば「構造」に肉迫することである。どういう「構造」のなかで「事件」が起きたかを描くこと、時間的、空間的な広がりの中での構造を捉えないと、「なぜ?」に答えられない。
今は、その「なぜ?」が消えている。「なぜ?」を考えるためには、鮮明な問題意識が求められる。その問題意識が鍛えられる場が、きわめて少なくなっているのが残念だ。
下山事件に関する文の、斎藤の末尾はこうだ。
下山事件の確たる真相は、私にはわからない。しかし、あの事件が起きた1949年の夏が、戦後の歴史と、日本人の民主主義への希求とをねじ曲げ、ねじ伏せた政治的な夏であったことは、確かなことのように思われる。そのとき、歴史の流れを誰が、どのように変えようとしたのか。あれから今日まで、少なからぬ人々の下山事件にかけた執念は、自分たちの歴史の転換点を見すえようとする願いからであり、また、別のいい方をすれば「あの転換点から由来する日本の現代を、自分たちは承服してはいないぞ」という意思の表明である、といえるかもしれない。