浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

この意見、ほとんど正しい

2020-08-12 22:54:05 | コロナ
厚労省は、「大日本帝国」を受け継いでいる。


いいことずくめの新型コロナ「指定感染症解除」に、厚労省が後ろ向きなワケ
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ニュージーランドで感染者

2020-08-12 22:54:05 | コロナ
 驚きのニュースである。ニュージーランドでは、 COVID-19の感染者は、海外からの入国者だけが感染するという状況が続いていた。

 ところがオークランドで、102日ぶりに感染者が発生したというのだ。海外に出たことのない家族が、なぜ COVID-19に感染したのか。

102日ぶりに感染者発生のニュージーランド…4人の陽性反応を受けて、3日間の厳重なロックダウンへ

 いったいなぜ?なぜ COVID-19のウィルスがあったのか。その感染ルートがわかるだろうか。

 不可思議と言うしかない。

【追記】 ニュージーランドではこういう追跡ができる。それがうらやましい。日本では、どこにウィルスがあるか、どこにでもあるような状態だから。
 
 NZで3カ月超ぶりに確認されたコロナ感染者、貨物介して感染か
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寂しい話しだ

2020-08-12 15:16:10 | 芥川
 芥川龍之介の「庭」を読んだ。話しのテーマは、「昔はこの宿の本陣だった、中村と云う旧家の庭である」。

 しかし、維新は、政治のみならず社会を大きく変えていった。この中村家も先祖代々続いた旧家であったのだが、維新と共に、「本陣」としての役割はなくなり、衰退という方向に進み始めた。

 そこに住む人々の衰退の動きが早まると、四阿(あづまや)や池も、木々も家の没落に足並みを揃えていくのだ。荒廃、という文字が庭を包んでいった。

 その家には、三人の男子がいた。長男は「癇癖の強い男」だった。次男は放蕩に身を持ち崩し、三男は遠方で働いていた。

 まず隠居の老人が亡くなり、次いで長男が肺病で亡くなった。そこへ三男が妻と共に移ってきた。その後長男の妻も亡くなり、ひとり息子・廉一が残された。駆け落ちをしていた次男が帰り同居するようになった。次男はおそらく花柳病であった。次男はある時、荒廃していた庭を元通りにしようとした。しかしすでに体は弱っていた。廉一が手助けしたが、次男は静かに息を引き取った。
 
 その後、中村家は破壊され、停車場となった。中村家の住人はひとりもいなくなった。隠居の老人の妻も亡くなり、三男は大阪へ行ったという。

 廉一は、今、洋画研究所で油絵を描いている。

 そういう筋である。

 明治維新という大きな変革が、時代に乗り遅れた人々を蹴散らしていったのだ。古き良き時代ということばがあるが、それはいつか蹴散らされる運命にあるようだ。

 ただこれだけは言っておきたい。明治維新を評価する人は多いが、その渦中に残さなければならなかったもの、変えられてはいけなかったものがたくさんあったの。しかし世の中には時流に乗って一儲けしよう、出世しようという人が多いことから、そういう物は一顧だにされなかったのである。

 「庭」が荒廃し、消されていった。寂しい話しだ。芥川は、そういう変化に哀惜を感じていたのだろうか。
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猛烈

2020-08-12 15:16:10 | 芥川
 芥川龍之介のイメージは、あまり話さない静かな人だというイメージがある。中国や日本の古典を縦横無尽に読み尽くしているように思えるから、またいろいろな題材をもとにして作品を書いているから、人と話している時間なんかないのではないかとも思う。

 芥川の「一夕話」。

 実業家若槻峰太郎と芸者の小ゑんが別れたという話しを、男共が集まって話している。男共は大学の同級生のようだ。

 そこに集まった男共にとっては、話しとしてはつまらない、どうでもよいことだ。
 医師の和田は、なぜ二人が別れたのか、見解を述べる。

 若槻は、小ゑんに読み書きを始め、いろいろな習い事をさせたりした。小ゑんの家族の世話もした。しかしある時、小ゑんは若槻から離れていった。若槻は「あの女と別れる位は、別に何とも思っていません」という。そしてただ「何事にも理解の届いた、趣味の広い女に仕立ててやりたい」という希望をもってきたという。

 小ゑんは、浪花節語りと仲良くなったそうだ。

 和田は、その男は、乱暴者で悪い噂がたくさんある、にもかかわらず、小ゑんは男についた、そのことが幸せになるかどうかはわからないという。

 なぜ若槻から離れたか、和田は推測する。

 若槻のようないろいろなことに通じている「通人」は、

 猛烈な恋愛を知らない。猛烈な創造の歓喜を知らない。猛烈な道徳的感情を知らない。

 ここまで来て、なるほどと私は納得する。人生、静かに、波風もなく生きていくことこそつまらないことはない。猛烈に人を愛する、猛烈に何かに夢中になる、そういうことがあってはじめて「人間的」だといえるのだろう。

 私は高校時代、『椿姫』や『マノン・レスコオ』を読んで、こういう情熱的な恋愛をしてみたいと強く思った。その後も、いろいろ破天荒なことをしでかしてきた。今はもう齢を重ねて静かにしているが、
 私は、小田実のように「何でも見てやろう」、「何でもやってみよう」という精神で生きてきた。
 要するに、若槻にはそういう面がないのであろう。では芥川にはあったのだろうか。それを考えると、芥川は「猛烈」をもった者に羨望を抱いたのではないだろうかと思ってしまう。

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日本の人権意識

2020-08-12 13:53:28 | 政治
 香港の民主主義が、強権的に圧殺されようとしている。それに果敢に抵抗してきた周庭さんが逮捕された(現在は、保釈されているという)。

 日本政府は、それに対して批判も抗議もしない。人権意識が低いからだ、ということは日本国民の人権に対しても冷たいということでもある。

 アグネス逮捕も「引き続き懸念」だけ…歴史修正では強硬な安倍政権が香港問題ではなぜ弱腰なのか? 背景に安倍首相の人権意識
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黒くなる

2020-08-12 13:25:07 | 芥川
 猛暑の中、ほとんどはエアコンを稼働させて、その中にいる。原稿を書かなければならないからだが、やっとひとつ終わりファイルに添付して送ったばかりだ。

 しかし午後4時近くになると、私は勇躍炎天下の農民となる。水筒にジュースを入れ、UVカットの服を着て、しっかりと帽子を被り、首には濡らすと冷えるといわれる(ほんとうにそうかどうかはわからない)タオルを首に巻いて行く。長雨のせいで、雑草が生長し、野菜を取り囲んでいるのでそれらを除くためである。汗まみれになって帰ってくる。従って、日やけはすごい。顔は日焼止めを塗っているが、背中は家人に言わせると真っ黒だという。

 さて、芥川龍之介の「長崎小品」を読んだ。室内に飾られている陶器などに描かれている人物が会話をするという珍奇な話である。きわめて短いものだ。

 そのなかにこういう台詞がある(それぞれの会話で成りたっているから)。

 司馬江漢が描いた「蘭人」に対して、阿蘭陀(おらんだ)で描かれただろう女が、「ほんとうは阿蘭陀人どころか、日本人とも西洋人ともつかない、つまりこの国の絵描きの拵えた、黒ん坊よりも気味の悪い人です」という。

 私は、この「黒ん坊よりも気味の悪い人」という表現にひっかかる。黒人は気味の悪い人で、江漢が描いたその「蘭人」はそれよりも気味が悪いという意味だろう。芥川は、黒人に対する蔑視意識を持っていたようだ。それは「三つの宝」にもそういう個所があるからだ。王女がいて、その王女はアフリカの「黒ん坊の王様」と結婚させられることになっていた。王女はその「黒ん坊の王様」がイヤでイヤで仕方がないほどだ。この話しの中には、「黒ん坊」ということばがたくさん出て来るが、一つとして肯定的なものはない。

 もちろん私は、芥川の黒人蔑視を非難するつもりはない。当時としては、そのような感覚が一般的であったのだろう。そのような社会意識のなかで生きていれば、いつのまにか差別意識が入り込んでしまうのだ。
 現在に生きる私たちは、黒人差別や人種差別はあってはならないことであるという人権意識を持っているが故にこそ、芥川龍之介にもそういう意識が醸成されていたことを指摘しておきたいのである。

 『芥川龍之介全集』の第5巻は、もう少しである。とにかく、すべてを読み切ろう。
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