8月は、メディアが戦争をとりあげる。1945年に終わった戦争を忘れてはならない、ということである。
私も8月は、戦争に関する本を読む。その一冊がこれである。
ふたりの対談により構成されるこの本の著者は、すでに亡くなっている。二人とも学徒兵であった。島尾敏雄は奄美の加計呂麻島で、特攻艇震洋の隊長であった。もちろん命令があったら、米艦に体当たりして死ぬことを求められた。吉田は、戦艦大和の乗員であった。乗組員の多くが亡くなったなか、数少ない生き残りであった。生き残った吉田は、特攻を志願し、敗戦時は四国にいた。
島尾も吉田も、死の間近にいて、みずからの死を凝視しながら、同じように死を強制された兵と共にあった。
敗戦により、二人は生きることとなった。しかし特攻の体験は、その後の生に深い深い刻印を記した。その体験がいつもかれらの心にあった。
彼らが共通してもったものは、戦争というものの「虚しさ」であった。しかしその「虚しい」戦争で多くの人が亡くなり、また自分もその際にあった。
その体験を、どのように昇華するのか、吉田は『戦艦大和ノ最期』などを書き、島尾は『出発は遂に訪れず』などを書いた。だからといって、彼らのこころが晴れ渡ることはなかった。いつも、特攻体験がついてまわった。そしてそれは重く、虚しいものであった。
だから、解説を書いた加藤典洋は、こう記した。
「言葉を変えれば、特攻体験をそのまま受けとめる限り、そこから「感動」に結びつく物語は生まれてこない、ということになる。」
特攻は、「感動」とは結びつかない事実なのだ。