コロナワクチンの危険性を報じているのは、名古屋のCBCくらい。明らかに、ワクチン接種が原因で亡くなった方がいる。しかし国からの救済はない。
アベの葬儀はすでに増上寺で行われていたのに、さらに「国葬儀」を行った日本国。そういうことに多額のカネをかけるよりも、こういう方を救うべきではないのか。
コロナワクチンの危険性を報じているのは、名古屋のCBCくらい。明らかに、ワクチン接種が原因で亡くなった方がいる。しかし国からの救済はない。
アベの葬儀はすでに増上寺で行われていたのに、さらに「国葬儀」を行った日本国。そういうことに多額のカネをかけるよりも、こういう方を救うべきではないのか。
ここ2年間開催されなかった「大道芸ワールドカップin静岡」、今年はプロデューサー奥野晃士の差別文書、差別発言で、大騒動。
浜松市からも見に行く人がいるほどの行事である。
きちんとした知識のないままに堂々と人びとの前で話す。こうした資質を持った奥野という人をプロデューサーにする実行委員会にも問題があるだろう。
統一教会のもと2世信者が、外国特派員協会で記者会見を行った。
会見中、統一教会と彼女の両親(信者)からのメッセージが紹介された。そのメッセージには、会見を中止すること、そして、彼女が「精神的な病気のためにウソばかりを話すようになっている」というようなことが書かれていた。
親が、娘が公的な場で発言することに対して、「(娘は)ウソばかり話すようになっている」などと、ふつうの親なら絶対に言わない。
統一教会に洗脳されると、実の娘よりも、実の娘がそのメッセージによりどれほど精神的な打撃を受けようと、教会の指示の方を優先するということ、まさに山上容疑者の母親が「教団に申し訳ない」とだけを語っているということと軌を一にしている。
いかに統一教会が反人間的な、家庭を破壊する反社会的な宗教団体であるかということを、みずからが証明したといってもよい。
統一教会に対する怒り、さらにそれと結合している政治家たちに対する怒りがさらに増した。
『Journalism』9月号で、購読期間が終わった。雑誌はできるだけ読んだら捨てようと思っているので、これは読み終えたら廃品回収行きである。
さてこの号で、フムと思った言葉。
アメリカで「The 19th」を発行しているエミリー・ラムショーのインタビューのなかに、「この国の物語を紡ぎ直す」があった。文脈からは、女性の視点から「紡ぎ直す」ということなのだろうが、これはいろいろなことに敷衍できるように思った。
歴史修正主義が出て来て、今まで厳密な史料にもとづき形づくられたものが、いい加減な手法で崩され、その崩されたそのものが教科書にも載るようになっている。歴史修正主義は、不健全なナショナリズムを本質とするもので、歴史のなかにみずからの汚点を見ない、気にしない、というもので、それにもとづいて非実証的な歴史物語をつくってきた。
私は、厳密な学問的手法で「この国の物語を紡ぎ直す」ことをしなければならないと考えた。歴史修正主義を推進する広告塔でもあり、その機関車でもあった者がいなくなったことから、学問の復権をここで試みなければならないと思う。
宮間純一が「国葬」について歴史的に書いている。短い文のため、「国葬」を歴史的に説明することはしてはいないが、重要な点は次のことである。
「国葬は、被葬者の公的な記憶を形成する場である。ここでいう記憶とは、個人が過去のことを思い出すという意味ではない。国家という共同体が保有する集合的記憶のことを指している。」
私たちは、「国葬儀」の対象者であった者の「公的な記憶」を正しいものにしなければならない。いかに日本の平和的・民主的な国家体制を潰そうとしたか、いかに政治を私物化したか・・・・・・というように、事実に基づいた正確な「公的な記憶」を、国家の側が押しつけてくるだろう歪んだウソ八百の「公的な記憶」に対置するものを提示していかなければならない。
先日、テレビ局に勤める友人から電話があった。テレビ局に就職しようとする者が減ったこと、入社希望者は報道や制作ではなく、営業などのテレビ局の本業ではないものをやりたいといってくるという。変わったなあ。
『Journalism』には、アメリカで地方紙がない地域が増えている、それとともに、地方権力の恣意的な政治が目立つようになってきている、という。
「この町での日々起きることを新聞は記録にとどめてきた。新聞がなくなるのはね、地域社会の記憶が失われるのに等しい」、「権力のウオッチドッグ(監視役)の担い手もいなくなる」ということばが紹介されていた。
新聞の衰退、紙媒体の衰退が指摘され、いずれなくなるだろう、とも言われている。新聞購読者も減っている。新聞がなくなったら・・・・ということを考えることも必要だろう。
私たち歴史研究者は、新聞を歴史を探究する際に重要な資料として活用する。新聞がなくなるということは、歴史も消えるということである。新聞記者は、歴史の記録者なのだ。
以前、そうした文章を書いたことがある(「地方記者へ」)。しかし、自覚ある若い記者に出会わなくなって久しい。
やむを得ないのかも知れない。
『Journalism』9月号で、購読期間が終わる。これで朝日新聞社とは縁が切れる。ジャーナリズム精神を失った朝日新聞社が『Journalism』という雑誌を発行する無自覚さ。
最近、「終活」を意識して、書籍を大量に処分し始めた。書籍は、私の仕事部屋にあり、実家にもあり、また書庫にもある。
読んだ本は線を引いたり、書き込みをしたりしているので、廃品として捨てている。一昨日は大きな紙袋3つ分を捨てた。またかつて購読していた『歴史評論』などの歴史関係の雑誌も、目を通しながらほとんどを捨てている。
また未読の本もたくさんある。
だから最近は本を増やさないように、買わないようにしている。よほど読みたい本以外は、図書館から借りるか、買わない。最近買った本は、樋田毅の『最後の社主』、奈倉有里の『夕暮れに夜明けの歌を』だけである。
さて全国的にも書籍の販売が落ちているという。出版状況クロニクル173 によれば、「22年8月の書籍雑誌推定販売金額は801億円で、前年比1.1%減。書籍は423億円で、同2.3%減。雑誌は378億円で、同0.2%増。雑誌の内訳は月刊誌が315億円で、同0.3%増、週刊誌は62億円で、前年同率。」だという。また図書館での書籍貸出数も減っているという。
「21年の公共図書館界で異変が起きているといってもいいかもしれない。それは個人貸出総数が5.4億冊で、20年の6.5億冊に比べて、1億冊以上の減少を見ている。「21年の図書館数は20年よりも6館増えているし、専任職員数、蔵書冊数、年間受入図書冊数、個人貸出登録者数、資料費はほとんど変わっていないのだが、個人貸出総数だけが急激に減少していることになり、それは20年前に戻ってしまう数字である。この減少に対して、21年の書籍販売部数は5.2億冊で、図書館の個人貸出冊数と書籍販売部数が接近してきている。」
最近は学校でも本ではなく、タブレットなどを利用する方針が出されている。
しかし私は、紙の書籍でないとアタマに入らない。アマゾンのKindleも持っているが、やはり利用せず、紙に頼る。
以前、教育問題を取材している朝日新聞記者と話したとき、彼の子どもがタブレットでの授業によって学んだことが定着しないので、つきっきりで書籍をつかって教えることにより学力が回復してきた、と聞いた。さもありなんである。
パソコンやKindleの画面を見て読んでも、それは読んだことにならない、という気がする。アタマに入らないからである。
人類は、長い間、知識を紙というものに印字して蓄積してきた、その経験は、今後も必要だろう。
私は、今はあまり本を買わないが、かつて購入した本を読みふけっている。読書は、とても大切だと今も思う。
テレビを見ない私は、アベの国葬がどのように行われたのかを知ることはない。もちろんユーチューブで見ることはできるかも知れないが、アベの国葬を見る時間が、私の人生にとって大きな損失になると思い、見ることはしなかった。
早稲田大学の水島教授が、その内容を「平和憲法のメッセージ」で記している。たいへん参考になった。アベは統一教会だけではなく、自衛隊に象徴される軍国主義とべったりとくっついていたことが明らかとなる。
すでに日本は、大日本帝国の時代に逆戻りしているような気がする。
郵便局のサービス低下が甚だしい。
最近の状況。まず郵便の配達に日数がかかるようになった。送ったという連絡があっても、以前のように到着が予想できなくなった。誤配も増えた。時々他人宛の郵便物が入ることがある。その際には、郵便局に電話してとりに来てもらう。また配達時刻が不安定になった。以前は昼頃だったのが、今では夕方になったり、昼頃になったり、配達時刻がまちまちになっている。
そのせいか、郵便物の利用が減っているような気がする。
私は、何らかの連絡をするとき、絵ハガキをつかうことが多い。今でもそれは続けているが、しかし他者からの郵便物は確実に減っている。かつてはほとんど毎日、何らかの郵便物が郵便受けに入っていたのだが、今では確実に少なくなっている。
郵便振替を利用する場合でも、たとえ手数料受取人払いの赤い用紙であっても、現金で送る場合は110円の手数料を求められる。ただしゆうちょ銀行からの送金にすれば手数料はない。今までは現金をATMで送金すれば手数料はなかった。
近所の寺の世話人をしている方が、ゆうちょ銀行から農協に変えたと言っていた。寺には賽銭がある。多くは硬貨である。それを持っていくと手数料がかかる。だから農協にしたと。
日本郵便のお偉いさんが主導して、オーストラリアの流通会社を買収したが、多額の損失を出して失敗したという記事があったことを思い出す。民営化後、カネ儲けにはしり、その結果多額の損失をだし、顧客に無理に証券を買わせて問題になったり、民営化後の郵便局は信用を大きく喪失した。民間から入り込んだ経営陣は責任をとることもなく去って行ったようだ。
そうした経営陣の暴挙を余所に、郵便配達に従事している労働者は疲弊し、やめる人が増えているそうだ。また非正規の職員が増えているという。それでも足りずに、郵便局はいつも求人をしている。
サービス低下により客は離れ、働く労働者が疲弊しやめていく。郵政民営化後の郵便事業の衰退はとどまるところを知らない。
郵政民営化を行ったのは小泉純一郎であった。彼の責任は重い。
もういちど、郵政を公営化すべきである。
また郵便局の窓口にいる人の対応も悪くなったような気がする。