新聞の書評を見て、図書館から借りだした。これも一挙に読み進めた。ということは、内容的に読むに値する本だからだ。
まずこの本は、メディア関係者に読んでほしいと思った。とりわけⅡの「韓国における歴史認識問題」である。日本の新聞やテレビニュース、雑誌などで書かれている「歴史認識問題」に関して、私はそれらのあまりの無知、無理解、傲慢さを感じてしまっているからだ。きちんとした知識もなく、日本政府や政治家がふりまく言説を、何の疑問もなく同じように増幅して振りまいている日本メディアの報じ方に呆れかえっていたところである。「歴史認識問題」を理解するには、当然のごとく、日朝(日韓)関係の歴史などの知識が求められるが、一般に流布している記事などは、そうした知識をもたずに書きなぐっているのだ。
本書は、Ⅱにおいて、具体的に事実を提示しながら、高所から論ずるのではなく、こうではないか、こう考えるべきではないかと謙虚にかつ冷静に論じている。「歴史認識問題」に関する日本政府やメディアを批判するものは、強い姿勢で難詰するようなものも多いが、本書はそうではないので好感が持てる。
私は90年代に何度も訪韓しているが、そのころの韓国の状況と現在は、韓ドラを見る限り、あまりの変容に驚く。その発展ぶり、ソウルの街並みの美しさ・・・・・
しかしその裏に、韓国社会の厳しい現実があることが、Ⅲの「苦悩する韓国社会」で記される。どこの国も、様々な矛盾を抱え、庶民は苦しい日々を過ごしているのである。まだまだ温存されてきた旧勢力が力を持ち、また財閥が経済を牛耳っている。そのはざまで、庶民は必死に生きようとしている。それは日本の姿でもある。日本の場合は、利権が社会を覆いつくし、政治はその利権を守り、そこからどのような利益を引き出すかに躍起になっている社会であるが、韓国でも姿かたちは異なれど、庶民はたいへんな日々を送る。
具体的に、冷静に、そうした事実を並べていく。韓国の社会のありようが読み進む中で、姿を現す。
しかし、日本と韓国の大きな違いは何か。それは人々が声を上げているかどうかである。
キャンドルデモに参加した筆者は、こう記している。
民主主義社会において主人公である市民一人ひとりが声を上げることがいかに当たり前のことと考えられているか。デモが民主主義の大切な表現手段としていかに大切なものと考えられているか。デモのために街頭へ繰り出すこと、声を張り上げることが何ら特別なことでなく自然な行動であるか。政治的な立場表明の発言も、そして不条理に対しデモを通して怒りを示すことも、連帯を感じることも楽しむこともすべて、この社会の日常の一部であり根っこであるということを身近に感じることができた。
日本には、こうした民主主義的な行動がない。この点において、韓国社会の成熟を、私は感じる。そういう庶民の動きがあるからこそ、経済活動も活発になるのである。
人びとは、動かなければならない、韓国を見習うこともたくさんあるはずだ。
多くの人に読んでもらいたいと思う。