浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】村山由佳『風よ あらしよ』(集英社)

2023-03-06 20:18:27 | 

 かつてこの本の紹介をしたことがある。今年は、関東大震災100年、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一虐殺100年ということになる。これに関して今まで書いたものを、少しずつここに掲載していく。

史実と想像力とー村山由佳『風よ あらしよ』(集英社、2020年)を読む

                                                             

はじめに 近年伊藤野枝に関する書籍の刊行が続く。栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店、2016年)、田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かず 管野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店、2016年)、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』も岩波書店の現代文庫から再刊された(2017年)。また森まゆみも『伊藤野枝集』を岩波文庫から出している(2019年)。そして昨年、この村山由佳の『風よ あらしよ』が出版された。

 この野枝ブームは栗原の『村に火をつけ、白痴になれ』(以下、栗原本とする)がつくりだしたものだ。村山もインタビューで、栗原本を読んだ周囲の編集者から「伊藤野枝が村山さんと重なる。村山さんの書く野枝が読みたい」と言われ、実際に栗原本を「読んで、ああ、なるほど」と思ったことがきっかけとなった、と語っている(「小説丸」のHP)。 私は今まで、野枝について書かれたものはほとんど読んできているが、栗原本を読んだときに強い異和感を覚え、栗原本を批判したこと(「伊藤野枝-その生と闘い」)もあり、本書が栗原本をきっかけにしているということから警戒感をもってよみはじめた。しかし、それは杞憂であった。 

本書の特徴  本書の巻末には「本作品は史実をもとにしたフィクションです」と記されている。言うまでもないことだが、野枝の全生涯を詳細に跡づける資料はない。評伝は、一般的には、対象とする人物が書いたもの、その人物と関わったことがある者が書いたもの、書簡、新聞資料などを駆使して当該の人物を描いていく。それら断片的な資料をつなぎあわせながら当該人物の生の軌跡や思想を明らかにしていくわけだから、それらをもとにして描く以上、著者によってそう大きな違いがでてくるわけではない。本書もそうした手法をとっているから、史実をいい加減に処理している栗原本と異なり異和感はない。実際本書を読み進めていくと、野枝に関わる史実がきちんと記され、想像力によって描かれた部分と史実とがうまい具合に調和していることを発見する。史実に即しながら、村山自身の想像力によって、野枝がより豊かに描かれる。それが本書の特徴のひとつである。

  また野枝の視点だけではなく、平塚らいてう、辻美津(辻潤の母)、神近市子、堀保子、後藤新平など、野枝と関わった複数の眼から野枝の姿を描いていく。それも特徴といってよいだろう。

 とりわけ大杉栄の身勝手な「自由恋愛論」に対して、関わり合った三人の批判が記されている。これは村山による「自由恋愛」論批判と言ってよいだろう。「大杉の言う屈辱的条件とは、以前から彼の提唱してきた〈自由恋愛〉の条件に違いない。すなわち、互いに経済的に自立して同居をしないとか、束縛しないとかいったあのたわごとだ。どれもこれも男にとって都合のいい条件ばかりではないか」(堀保子、327頁)、「好色が目的ではない?本当だろうか。たとえそれが本当だとしても、男にばかり都合のいい勝手な理屈であることに変わりないではないか。」(神近市子、339頁)、「・・多角的な恋愛関係を結ぶという選択は、(三人にとって)大変に重大な問題なんです。きっとあなたには痛くも痒くもないんでしょう。ご自分で思いつかれた実験ですし、しょせん真剣ではない片手間の恋愛でしょうから、いくら世間から後ろ指をさされようと心の痛手にはならない。・・・男と女の間に横たわる不公平を、ねえ大杉さん、あなたは一度でもまともに考えたことがありますか。私たち女が生きてゆく上での苦しみを、ほんとうに想像してみたことがありますか。無いでしょう?」(野枝、382~3頁)。

 ちなみに雨宮処凜は、本書を読んだ感想として「大杉栄がだめんずすぎてもう・・」(『週刊金曜日』1310号)と書いている。当然の感想である。だがこの「自由恋愛論」は、野枝との同志的な愛が確立する中で、大杉の内部からも崩壊していく。要するに、まったくの「観念論」であったのである。

 もう一つの特徴は、村山が同じ女性としての体感を書きこんでいることである。これは男には書けない。たとえば野枝は能古島まで泳ぐことができるほどに水泳が得意であった、「ゆったりと大きくうねる波に背中から持ち上げられては、また下ろされる」(49頁)というなかで、みずからの身体を実感したり、「自分の身体が、自分の意思に逆らう。毎月のものもそうだが、妊娠や出産ははるかに暴力的で破壊的だ。日に日に出っ張ってゆく腹の中では見知らぬ生きものが育ち、出てくるとなったら抗うことはできない。・・・・ああ、痛い。乳が張るー。」(374~5頁)というように。  

おわりに   本書は好評のようである。嬉しい限りである。伊藤野枝はもっともっと注目されなければならないと思っているからである。

 特定の人物をとりあげ描くためには、できる限り史実を探り、当該の時代状況の中に位置づけることが必要である。それなしにその人物の本当の価値を知ることはできない。とりわけ野枝が生きた時代、強固な家父長制の下でみずからの生の充実を求めようとするとき、女性は様々な桎梏と闘い、また打ち克っていかなければならなかった。野枝だけではない。神近も、平塚らもそれは同様である。そしてその闘いはまだ続けられている。続けざるを得ない状況があるからだ。 

 私は先に挙げた「伊藤野枝-その生と闘い」の末尾に、野枝の闘いそのものが野枝の思想であったと記した。野枝の思想は振り返られる価値がある。

 この度、村山の心身を通過することによって、野枝は新たな生命を与えられた。

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