ひさしぶりに北岡和義さんのHPをみてみようとクリックしたら、でてこない。どうしたのだろうと検索したら、北岡さんが2021年に亡くなっていたという記事をみつけた。知らなかった。
北岡さんは、ジャーナリストであった。読売新聞記者をしていて、そのあと政治家の横路孝弘の秘書をしていた。横路議員が西山太吉毎日新聞記者が探っていた沖縄密約について国会で質問したとき、北岡さんは秘書だった。
その後北岡さんはアメリカに飛んで、アメリカの邦字紙で働いたりしていた。その後帰国し、三島市にある日大の特任教授をしたりしていた。そのころから、私は北岡さんとつきあうようになった。
静岡新聞のO記者と三人で、寸又峡に行ったこともある。あれは東日本大震災の翌年だったか。私は放射能検知器を持参していた。放射能を含んだ雲が寸又峡付近に到達していたという記事を読んでいたので、調べようとしたのだ。私が住む浜松市の値の10倍ほどであった。なぜ寸又峡に行ったのかというと、彼は金嬉老事件に関心を持っていて、富士見屋旅館を見たいといっていたからだ。私は金嬉老事件について事件当時の地元の動きなどを書いたことがあった。
時々北岡さんは浜松に途中下車して一緒に食事をしたりした。いつだったか、自分が肝臓がんであること、そのために某大学病院にかかっていることなどを聞いた。
年賀状も交換していたが、前年の年賀状をみながら書く私は、もし北岡さんのそれが届いていなかったら書かなくなる。
北岡さんは家族と離れてひとりで暮らしていた。『静岡新聞』にコラムを書いたりしていた。
そんなに密なつきあいではなかったが、いろいろなことを話した。もちろん彼も、今の日本を憂いていた。
私の知人が次々と鬼籍に入っていく。考えてみれば、私が付き合っている人びとは、私よりかなり年長で、そういう人が多いことに気づいた。だからか、もうほとんどいなくなっている。
寂しい。私が書いた原稿を読み、感想を語ってくれる人は、もう一人もいない。今年で紙媒体に書くことはやめようと思う。書いても甲斐なしだから。
北岡さん、ありがとうございました。いずれまた・・・