浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】若桑みどり『女性画家列伝』(岩波新書)

2024-04-19 19:32:06 | 

1985年に発刊された本で、今まで書庫に眠っていた。花粉症などの薬が切れたので、病院に行く必要が生じ、しかし病院では最低でも一時間は待たされるので本を持っていこうと目についたのがこれ。

 日本の女性画家は、上村松園、ラグーザ・玉、山下りんの三人が紹介されている。山下りんはロシア正教会のイコンを描いた画家として知っていたし、また上村松園は有名でこの人の絵は何度も見ている。知らなかったのはラグーザ・玉である。ただ、知っているといっても詳しくは知っていないので、新たに教えられたことも多い。

 上村松園は独身であるが子どもがひとりいたこと、宮尾登美子が松園のことを新聞小説で書いたこと、「日本は一貫して個人には興味がな」く、作者は女性を「性的対象として興味を」もつのだが、松園の美人画は、「性的対象」としてではなく、「はじめて生活している女を描」いた。松園の絵は、「彼女が、生きられなかった女の生を描いている」という。

 ラグーザ・玉は、西欧彫刻を教えに来たラグーザと結婚し渡欧。玉は、絵画の才能を花開かせ、数々の受賞歴をもつ。1927年夫が亡くなったことから帰国を考えるがローマの日本大使館は拒否、それが契機となって日本語を失う。1933年に帰国した。

 全部で12人の女性画家が紹介されているが、私はケーテ・コルヴィッツに関心を持った。彼女にとって「美しいもの」とは、貧しき人びと、労働者、老人などであり、決してイデオロギーで描いたのではない。若桑は「イデオロギーが先行するとき、芸術は死ぬ。芸術とは恐ろしく人間的なものであり、徹底して美的なものである」と書くが、ケーテ・コルヴィッツが版画で描いた人たちを、彼女は「美しいもの」ととらえ、だからこそ描いた。彼女の版画は、韓国や中国の抵抗の版画などにつながっている。

 一冊の本を読むだけで、いろいろなことを教えられる。知らなかったことを知るようになる。若桑は『ケーテ・コルヴィッツ』という本を書いている。読んでみようと思う。

 とても良い本である。

 

 

山下りんは、

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学歴詐称の問題と「空疎」

2024-04-19 13:47:14 | 社会

 日本の社会は大きく劣化していると感じさせられる事件である。

 政治家としてなにも考えることなく、ただ権力の周辺で生きることのみをめざしてうまく動き回るひとりの女。だから彼女は、政治のレベルではなにものをも残すことはない。権力の周辺で生きていくためには何をすればよいか、何をしてはいけないか・・・これだけが彼女の価値判断である。

 先ほど、若桑みどり『女性画家列伝』(岩波新書)を読み終えた。そこにひとりの女性画家をとりあげたところに、以下のような記述があった。

 女たちのサクセスストーリーには、美貌が不可欠の要素である。美貌を武器にして男の社会で出世する女性はいつの時代にもいるが、このような人がいくら輩出しても、女性一般が尊重され、平等に扱われた、ということにはならない。これらの人々は、女でなければほとんど歴史に登場する力量さえなかったのである。モデル達は自分が描いてもらう画家が、同じようなうまさならば、美人で愛想がよい方がいいと思ったであろう。女たちの成功のきわめて多くの部分が、男たちの好みに酔っていた。誓っていうが、彼女がブスだったら、これほどの大成功はおさめなかっただろう。

 話題になっている女性政治家が「美貌」の持ち主だと思ったことはないが、男たらしであることだけは間違いないようだ。

 若桑が紹介している女性画家は、アンゲリカ・カウフマン(1741~1807)である。当時は途轍もなく有名で、彼女は生きている間、カネと名誉に囲まれ、「幸せの頂上でくらすことができた」。

 しかし、若桑はこうも指摘している。

美術史上には、生前には神のごとく崇められて、死後は忘却されてしまった人々は、その逆の人よりはるかに多い。

 現在彼女の作品は、「空疎で、センチメンタル」だと評され、画家としての彼女を知る者はほとんどいない。美術史上では無名となっているが、生前と死後とのアンバランスの例として、彼女は知られている。

 今話題になっている学歴詐称の女性も、カウフマンと同じ道を歩むことになるだろう。なぜなら東京都知事に立候補するに当たって提出した「七つのゼロ」(待機児童ゼロ、介護離職ゼロ、残業ゼロ、都道電柱ゼロ、満員電車ゼロ、多摩格差ゼロ、ペット殺処分ゼロ)と「東京大改革の一丁目一番地は情報公開にあり」など、いずれも口先だけであったことが暴露されている。

 まさに「空疎」そのものの人物である。その「空疎」な女性に振り回され、「空疎」な質問しか出来ない記者たちの「空疎」さ。

 カイロ大学も、実態がなくても卒業証明書などを発行するという。カイロ大学も「空疎」である。

 東京都知事の周辺は、「空疎」で固められている。

 

 

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