東京都知事の「学歴詐称」問題。
川勝静岡県知事が引退することで、にわかに次の県知事は誰に?という話がメディアを騒がせている。
前浜松市長であったスズキ康友が出馬するようだ。私は、スズキ康友は、SUZUKI康友と呼ぶべきであると思っている。浜松市長として行ったことは、区を減らすことなど、すべて鈴木修から言われたことだけだからだ。彼に主体性はない。おそらく、SUZUKI康友に課せられた使命は、浜松市とタイアップして、SUZUKIアスリートクラブのために、現在ある浜松球場をつぶしてそこに立派な陸上競技場をつくること、球場は県にカネを出させて海岸部に新球場(交通アクセスがものすごく悪く、強風が吹き荒れるところ)を建設させることだ。
連合静岡が、SUZUKI康友を支援するという方向を示したようだ。連合静岡には、SUZUKI労組も自動車総連として加盟しているから・・・・。
県西部の経済界は、静岡市の経済界に対抗意識を持っている。静岡大学と浜松医科大学の統合問題でも、対立がある。鈴木修を中心とする西部経済界が、SUZUKI康友を支援し、連合静岡もそれに加わる。
ただの県民としては、勝手にやれよ、という気分である。
司氏は画家である。画家の視点から、「戦争画」を論じている。藤田嗣治、宮本三郎ら、「戦争画」を描いた画家たちに批判的である。「ああいう時代だったから仕方なかったのだ」とかいう「戦争画」描いた人びとを擁護する声があるが、司氏はきっぱりとそうではないと断言する。
それはなぜか。「ああいう時代」であっても、「戦争画」を描かなかった画家たちがいたからだ。「新人画会」というグループがあった。麻生三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、そして靉光、松本竣介らである。彼らは銀座で展覧会を行った。一、二回は日本楽器、三回目は資生堂だった。三回目は、1944年4月であった。そこには「戦争画」はなかった。
「ああいう時代だったから、軍に協力するしかなかった」という「弁解」は、ここで崩れ落ちる。
しかし、美術評論家らは、「戦争画」を描いた者たちを擁護する。その擁護のことばが、本書に収録されている。
軍部は、画家だけではなく、作家たちをも戦地に派遣した。「従軍画家」、「従軍作家」である。ドナルド・キーンはこう書いている。
作家の名声を利用しようとする軍部の思惑に腹を立てるどころか、ほとんどの作家は大陸へ派遣されることに熱心だった。従軍といっても、だいたいがわずか二週間、それもそのほとんどは豪華ホテルで過ごされた。
画家たちも同様だっただろう。
ヒトラーに見込まれてレニ・リーフェンシュタールは、「意志の勝利」などのドキュメンタリー映画を制作した。レニを論じながら、司氏は、
日本の戦争画でもそうですが、画家であるがゆえに描いてしまったということはありません。人より抜きんでた才能の持ち主に限って、権力者からの要請があり、描いているのです。その効果を期待することからすれば当然のこと(28)
一般の人でも、そして日頃反権力的な言辞を弄している者でも、権力者から声がかかると、平気でなびく、そういう人がたくさんいることは、私も見てきている。「権威」に弱いというか、自分自身に個としての自尊心がないのだ。
司さんは、こう記している。
日本の戦争画から生まれたものは、芸術家の奢りと、「無智な大衆」より劣る精神の貧弱さでした。そのような作品(大東亜戦争画)が芸術として評価されてよいはずがありません。(46)
大東亜戦争、あるいは十五年戦争が日本の歴史の恥部であるとすれば、「大東亜戦争画」も恥部、僕はそう思うのです。(61)
司氏は、「戦争画」の画料を書き留めている。銀座の土地、ひと坪一万二千円の頃、一号で10円、「戦争画」は二百号だから2000円が軍から支払われた。
「戦争画」を描く画家には、画材がふんだんに提供された。「ああいう時代だから軍に協力しないと絵が描けなかったんだよ」という弁解もある。だが、新人画会の画家たちは、「戦争画」を描かなかったが、そうでない絵を描くことができた。
新人画会の前で、彼らの弁解は一切の力を失うのだ。