石堂清倫は、知と行動の先達であった。知が先にあるか、行動が先にあるかという問いは愚問だ。知と行動は、同時になければならない。知と行動の契機は、現実である。現実を生きる人間として、行動することは必然であり、知は行動の中で探られ、確認され、新たな知が創造される。その知は、行動とともにある。
石堂は、マルクスの知の延長線上に存在した。しかしその延長線は一本ではない。複数の延長線の上で行動し、それとともに知を鍛えてきた。
知を鍛えるためには、批判が必須である。批判の対象は、みずからの行動にも、みずからの知にも向けられる。その批判は、現実をどのように変革するかという問題意識に基礎を持つ。
批判するなかで、現実がより明確に見えてくる。どのように現実を変えるか、そのために必要な知とは何か。
マルクス、レーニン、スターリンなどを読み、社会主義(共産主義)者として石堂がたどり着いた地平は、21世紀をどう変革していくかという問題意識のもと、グラムシを見出したことだ。
権力を掌握してのち変革に着手するのではなく、ヘゲモニーで優位に立ち、人びとに影響を及ぼしていくという長い長い道のり。ヘゲモニー、「支配被支配のなかで、被支配的なグループがいかにしてヘゲモニーグループに昇っていくか」(98)、支配権力のヘゲモニーに対抗する「対抗ヘゲモニー」をどう実現するか、支配権力のヘゲモニーに対抗して、文化的、倫理的、経済的ヘゲモニーをつくりだしていくこと。
現在の日本は、支配権力は腐りきった、すごい腐臭を放つ存在と化している。自民党や公明党の政治家、その他の政党の政治家は、その精神が歪みきっているが故に顔自体も歪み、彼らがヘゲモニーをつくりだす、生みだすことはできない状況にある。そんなときだからこそ、民衆の側、歪みのない人びとこそが、倫理的、文化的、社会的・・・・ヘゲモニーを打ちだすことができる。
20世紀を生き抜いてきた石堂清倫は、21世紀に生きる人びとに、そう教えている。