浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

暴力に対抗する(暴力についての考察4)

2024-11-16 23:21:38 | 国際

 ハン・ガンの『少年が来る』は、1980年の5・18光州事件を舞台としている。そこでは、韓国の軍隊が、韓国の市民を虐殺するという信じられない事件であった。

 さきほど、YouTubeで、光州MBCが制作したドキュメンタリーをみた。

Without leaving a name1 Without leaving a name2

 そこには、軍によって交通も通信も閉じられた光州の市民たちが韓国軍隊の暴虐にあっていることを見、あるいは知った人が、危険を冒して光州に入り込み、あるいは滞在していた外国人らが、世界に知らせようと必死に努力した姿が映されていた。また東京などでも、雑誌『世界』のT・K生の「韓国からの通信」に見られるように、光州を世界の市民に知らせること、そして韓国政府やアメリカに抗議する行動が展開された。

 そのなかには、牧師、ジャーナリスト、アメリカに密航した活動家、画家などがいた。何の見返りも求めず、彼らは行動した。

 わたしたちは、激しい暴力を市民にふるった全斗煥やその配下の軍人たちに対しては、強い怒りを持つ。おそらくその軍人たちは、みずからが行った蛮行を語ることもなく、また他人から賞賛されることはない。

 しかし、このドキュメンタリーに映し出された人びとは、まさにみずからの「良心」に基づいて行動した。そうした彼らを、わたしたちは賞賛すると共に、その姿に感動する。かれらの「良心」が他者の心を動かすのである。

 暴力に対抗する「良心」。ハン・ガンは、それを「この世でもっとも恐るべきもの」と書いているが、「恐るべきもの」といわれるほどに、「良心」は力をもつ、力を生みだしていくのである、それも連鎖的に。

 ひとりの「良心」が他者のこころを動かし、その他者の「良心」を呼び起こす、さらに・・・・・と、「良心」の波動は世界の人びとに伝わっていき、結果的におおきな力となっていくのである。

 このドキュメンタリーは、それを示していると思った。

 ハン・ガンのこの小説は、世界各地で戦争という暴力が吹き荒れているからこそ、書かれたのだと思う。

 わたしは、この小説に、大きな衝撃を受けている。

 

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【本】ハン・ガン『少年が来る』(クオン)(暴力についての考察3)

2024-11-16 17:21:41 | 

 一字、一字を追いながら読む。わたしの脳裡に、光州でおきたことが、そしてその事件が人間に何を刻印したか、それがおぼろげながら像を結ぶ。

 韓国の国家権力の、想像を超える激しい暴力。その荒れ狂う暴力の前に、人間として敢然と立った人びと。その暴力は、ただそこにいたという人びとを含めて、人びとの命を奪い、さらに生き残った人びとに、消すことの出来ない「記憶」を残した。その「記憶」とは、こころのなかの「記憶」だけではなく、みずからに振るわれた暴力の、からだの「記憶」でもある。

 『少年が来る』にでてくるのは、少年・トンホに関わった人びとである。虐殺された人びとの数からすれば、数少ない人びとの肖像ではあるが、かれらの生と死は、光州市民が体験した荒れ狂った暴力の象徴であるといえよう。

 この本には、暴力とはいかなるもの・ことなのか、暴力が人間の命を破壊するだけではなく、たとえ生き残ってもこころを破壊するのだということを、明確に伝えている。

 「暴力」について考えようとする場合、この小説を読まないと始まらないというほどに、暴力を描いている。

 そして暴力に抗するものは何であるのかも示唆する。それは「良心」。「この世で最も恐るべきものがそれです。」(140頁)と、記されていた。

 わたしは、道庁に残った人びとは、全斗煥の命令に従い押し寄せてきた戒厳軍の兵士と撃ち合ったと思っていたが、

 「・・(道庁に残った市民軍の)大半の人たちは銃を受け取っただけで撃つことはできなかった。」

とある。そのような立場に、もしわたしが立ち会っていたとするなら、おそらくわたしも引き金を引けないだろう。

 文中に「つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか?」(163頁)という問いがある。

 たしかに、韓国軍兵士は「残忍」だった。その兵士も、人間なのだ。そしてあまりに非道な暴力をふるわれながらも、「良心」にしたがって生きた人びとも、人間なのである。

 人間は、ほんとうに不可解なのである。

 拷問の叙述がある。読んでいて、日本の特別高等警察が植民地時代の朝鮮半島に「導入」し、それがそのまま続いてきたのではないかと思った。

 重い、重い小説である。著者のハン・ガンには、文字で表した世界のその背後に、無限の、この光州の出来事に対する想念があるはずだ。その想念の世界を知るためには、一度読むだけでは不可能のように思える。

 ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞したが、今、世界ではウクライナ、ガザその他で暴力が吹き荒れている。暴力を振るう者たちが、自分自身の暴力がいかなるものかを知るために、『少年が来る』は最良のテキストとなるであろう。

 

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・・・・・・・(暴力についての考察2)

2024-11-16 11:46:08 | 

 ハン・ガンの『少年が来る』(クオン)を、アマゾンで買った。そして読みはじめた。

 読んでは立ち止まり、遠くをみつめ、再び本に目を落とす。そして止まる。読み進んでいくと、お腹に重いおもりがあるかのように、からだ全体でその重みを感じる。

 光州事件。光州のふつうの市民や学生などが、韓国の軍隊の銃弾などによって殺害された。事件そのものが重くのしかっかってくるのに、この小説は、そのなかに息を吸って食べ物を食べる人間が登場する。しかし周りは軍隊によって殺された遺体が並び、また運ばれてくる。

 もっとも激しい暴力が吹き荒れ、ひとりひとりの人間の命を奪い、その人間に関わる人間たちの深い悲しみを生みだす。

 暴力がふるわれるとき、そしてその暴力によってころされたとき、人間は、人間の魂は・・・・

 ハン・ガンは、この小説で、暴力の本質を穿つ。暴力がもたらすこと・ものを描く。それは重い。その重みを感じる。それはまた人間の重みである。

 まだ途中である。少しずつ、少しずつ読み進める。時間がかかる。

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