兵庫県知事選の動向を見ていて、わたしはギュスターヴ・ル・ボンの『群集心理』(講談社文庫)を思い出した。この本については、このブログで何度か言及している。
たとえばその本の一節。
「これまで群衆が真実を渇望したことはなかった。群衆は、自分らの気に入らぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。群衆に幻想を与える術を心得ている者は、容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を打破しようと試みる者は、常に群衆の生贄となる。」
「群衆に幻想を与える術を心得ている者」がいれば、「群衆」はその「支配者」に支配される。
いま、「群衆に幻想を与える術を心得ている者」は、「群衆」の目の前に姿を現すだけではなく、SNSを利用して「幻想を与える」ことができるようになった。
兵庫県知事の斎藤某の言動について、子細に彼の行跡を追ってみれば、問題が多くあることは確かである。それについては、新聞やテレビ(わたしは見ていないが)で報じられた。
ところが、今回斎藤某に投票した若者たちの多くは、新聞は読まないし、テレビもみない。斎藤某についての情報について接していた者は多くないだろう。
そうした若者たちの前に、食いつきやすく明解で単純な情報が大量に流された。
しかし、
群衆の感情が単純で、誇張的であることが、群衆に疑惑や不確実の念を抱かせないのである。それは、直ちに極端から極端へ走る。疑いも口に出されると、それが、たちまち異論の余地ない明白な事実に化してしまうのである。
群衆は、巧みに暗示を与えられると、英雄的精神、献身的精神をも発揮することができるのである。しかも、単独の個人よりも、はるかにこれを発揮することができさえするのである。
群衆は、単純且つ極端な感情しか知らないから、暗示された意見や思想や信仰は、大雑把に受けいれられるか、斥けられるかであり、そして、それらは絶対的な真理と見なされるか、これまた絶対的な誤謬と見なされるかである。推理によって生じたのではなく、暗示によって生み出された信仰とは、常にこのようなものである。宗教上の信仰が、どんなに偏狭であって、どんなに専制的な威力を人身に揮うかは、誰でも知っている。群衆は、自ら心理あるいは誤謬と信じることに何らの疑いをもさしはさまず、他面、おのれの力をはっきりと自覚しているから偏狭にであるに劣らず横暴でもある。
歴史上、時に「群衆」が立ち現れることがある。最近の選挙は、「群衆に幻想を与える術を心得ている者」によって左右されるようになってきた、ということだ。
賢明な人びとは、そうした動きに警戒しなければならない。
というのも、
「群衆は弱い権力には常に反抗しようとしているが強い権力の前では卑屈に服する。」
からである。つまり、強い権力に抗するような動きを、「群衆」はしないということである。「群衆に幻想を与える術を心得ている者」は、支配権力の意向に沿って動く。
県知事は権力者である。彼がどのような横暴なことを行っても、「群衆に幻想を与える術を心得ている者」を傍らに置いておけば、「群衆」に批判されることはない。
【付論】今回の選挙は、新聞やテレビなどの「オールド・メディア」が完敗した、といわれるが、新聞やテレビは、支配権力の意向を受けて報じはするが、「群衆に幻想を与える術を心得ている者」ではない。
【付記】ネットで、この選挙結果の報道をテレビでみたが、もうテレビメディアは斎藤某にすりよった報じ方をしている。権力にすりよるテレビメディア、報道機関として信用されなくなるのは無理もないと思う。
【付記】「群衆に幻想を与える術を心得ている者」は、「群衆」を「暴力」に誘うこともある。