浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「忘れられた皇軍」

2024-11-24 16:51:59 | 近現代史

 大日本帝国は、1910年から朝鮮を植民地として支配していた。しかし、アジア太平洋戦争の激化のなかで、大日本帝国政府は不足する労働力を確保するべく、朝鮮人を強制的に労務動員に駆り立て、また中国人を拉致・連行して日本の鉱山などで働かせた。それだけでなく、軍属として戦地にも派遣した。さらに、朝鮮人を兵士にもした。大日本帝国政府は、反抗精神ある朝鮮人を兵士にすることにためらいはあったが、1938年2月、朝鮮陸軍特別志願兵令、43年2月には海軍特別志願兵令、同年10月には陸軍特別志願兵臨時採用施行規則が公布され、朝鮮人学徒も動員されることとなった。

 日本兵が戦死したり戦傷を受けたりしたと同様に、朝鮮出身の軍人・軍属も、戦死したり戦傷を受けたりした。

 1945年8月、敗戦。日本国政府は、戦死し、戦傷を受けたもと日本兵に対しては国家補償を行った。「戦傷病者及び戦没者遺族への援護」の各種制度である。しかし、1952年に制定された「法律第百二十七号 戦傷病者戦没者遺族等援護法」の付則には、「戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)の適用を受けない者については、当分の間、この法律を適用しない。」とあり、大日本帝国下、戸籍法に登載されなかった大日本帝国臣民であった朝鮮や台湾などの軍人、軍属には、援護がなされず、それは今も一貫している。

 戦時下では、朝鮮人や台湾人らは「大日本帝国臣民」として戦場に送られたのに、戦争が終わってみれば、「あんたらは大日本帝国臣民ではあったが、戸籍法に登載されていなかったから援護はしないよ」というわけである。

 だからこういう映画が、大島渚監督によってつくられた。

 「忘れられた皇軍」である。

 

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「便所掃除」

2024-11-24 08:53:49 | 日記

 斎藤真理子さんの『本の栞にぶら下がる』に、真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書)が紹介されていた。書庫から取り出して、読みはじめた。1982年の第15刷。赤線が引いてあったりするからきちんと読んだのだろうが、記憶はない。

 そのなかに「便所掃除」という詩があった。国鉄労働者の浜口国雄さんが書いたものだ。

扉をあけます。/頭のしんまでくさくなります。/まともに見ることが出来ません。/神経までしびれる悲しいよごしかたです。/澄んだ夜明の空気むくさくします。/掃除がいっぺんにいやになります。/むかつくようなババ糞がかけてあります。

どうして落着いてくれないのでしょう。/けつの穴でも曲っているのでしょう。/それともよっぽどあわてたのでしょう。/おこったところで美しくなりません。/美しくするのが僕らの務です。/美しい世の中もこんな所から出発するのでしょう。

くちびるを噛みしめ、戸のさんに足をかけます。/静かに水を流します。/ババ糞に、おそるおそる箒をあてます。ボトン、ボトン、便壺に落ちます。/ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。/心臓、爪の先までくさくします。/落とすたびに糞がはね上がって弱ります。

かわいた糞はなかなか取れません。(以下略)

 

 なぜこの詩を紹介しようとしたか。今日のニュースに、「教員採用、日程前倒しも受験者減8割」という記事を見つけたからだ。教員になろうという人が減っている。そうだろう、そうだろうと思う。

 教員とは、授業を教えることが主業なのだが、それ以外の雑用がどんどん増えていく。その雑用は、文科省の教員への支配統制策の強化と共に増えてきたものである。その一つが、勤務成績をもとに教員の給与を変えていくというやり方だ。そのために、教員に勤務内容についての自己評価を書かせるようになり、そのための業務が増えた。わたしは、教員給与の差別化に反対である。また一つには、わたしは経験しなかったが、生徒の成績に「観点別評価」という、私からみればまったく意味のないもののために、教員はぼうだいな時間をつかうようになっている。そのほかに、生徒からの相談に応じ、補習をし、さらに分掌の仕事、生徒の奨学金の申請業務、部活動の指導、家庭訪問、それに清掃の管理・・・・・・・・・・仕事は無数にある。授業の準備の比率はどうしても低くなり、結局その仕事は帰宅後となる。夜中でも、生徒が交通事故にあったといえば警察署に駆けつけることもある。

 ところで清掃の管理とは、生徒の清掃時に指導管理するというものである。トイレ清掃の指導管理にあたると、先ほどの詩と同じようなことに直面する。生徒ももちろんやりたくない、わたしもやりたくない、しかしやらなければならない・・となると、率先垂範ということになる。

 教員の仕事は多種多様である。いやでもやらなければならないことがたくさんある。トイレ清掃の指導管理をいくら熱心にやっても、「勤務成績をもとに教員給与を変える」のなかには入らない。見えない業務がたくさんあるから、教員の給与は一律で良いと、わたしは思う。本来なら手当が支給されるべき業務にきちんと手当がなされないこともある。時間外の労働などがそれである。そういうところを改善すべきであるし、なによりも一クラスあたりの生徒数を減らし、教員を増員すること、これがもっとも重要である。

 教員のなり手を確保するためにまずすべきことをする、それが文科省の仕事である。同時に教員への統制強化(そのなかには、教科内容への権力的介入も入る)をやめるべきである。学びというのは、自由な環境のなかでこそ行われるべきだからである。

 

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