無教会派のクリスチャン、浜松聖書集会の方々が毎年刊行している『みぎわ』が届いた。仕事が立て込んでいたため、しばらく机の傍らに置いておいたのを、やっとざっと読みとおすことができた。
巻頭は、故溝口正先生の文章が並べられていた。溝口先生が語っていたこと、書いていたこと、生前、何度か先生から同じ話を伺っている。溝口先生は、心から平和を望んでいた、そしてそのために全力を尽くされていた。
一切の妥協をみずからに許さない、強固な意志を持っていきておられた。
その、いわば同志の皆さんが、それぞれ文を書いている。わたしはクリスチャンではないので、聖書の解釈についてはよくわからない。しかし多くの方が、主体的に聖書に向かい熟考する姿が、行間から浮かび上がる。
この世界に生きていると、さまざまな事件が起きる。それらをクリスチャンの立場から何とか解き明かそうと試みる論稿があった。「この世的精神に抗して」である。「こういう現実を前にして、キリストの福音は何を語りうるか」を考えるのだ。
あのジェノサイドが繰り広げられているガザで、治療に当たる医療従事者、そしてガザで起きていることを報じるジャーナリストの姿に、筆者は「神の支配、神の国を見る」。そして「イエスの復活」に関する文献を紹介しながら、「イエスの復活」を証明する直接的なものはないこと、したがって、「イエスの復活は、それを信じるか信じないかは、単なる頭の中で納得できるか否かの問題ではなく、自分の実存を賭けての生き方の問題」であると論じる。これについては、クリスチャンではないわたしも同感である。イエスは十字架刑により亡くなった、しかしイエスは復活した、と言われる。しかしそれは、常識的にはあり得ない、あり得ないが故に、クリスチャンは、それをおのれの「実存を賭けて」信じるのである。そうでしかあり得ない。
「プーチンと一体化したロシア正教」を、筆者は「この世的キリスト教」とする。また、「この世での武力や経済力や人々の人気や数の力を用いて、この世での栄光、覇権の追及こそが、人が求めるべきもっとも価値あるものだとの信仰のようなものです。それは裏返せば、真理の権威だとか真実の追求だとか道義の力だとかいったものの尊重は、この世で負け犬の遠吠え、理想主義者の幻想だとして捨てて省みない姿」を「この世的精神」とする。
そして「イエスの復活」を信じるとは、「この世での敗北を恐れない」ことだとして、文を閉じている。忌むべき現実をどう理解し、その現実が大きな重しとしてのしかかってきても、「敗北を恐れない」という意志、それは溝口先生も持っていたものだ。
敬虔なクリスチャンは、謙虚に、しかし強い意志をもって生きる。たとえば、山のハム工房ゴーバルとして、あるいはデンマーク牧場で福祉に従事しながら。
『みぎわ』を通読して、共通する精神は、「~と共に」である。「~」には、神(イエス)、クリスチャン、そして「みんな」が入る。もちろんクリスチャンではない、「わたし」も入る。