なぜユダヤ教徒がつくったイスラエルは、ムスリムであるパレスチナ人を殺すことができるのか、という疑問を持っていた。なぜなら、「旧約聖書」の「モーセの十戒」には、「汝殺すこと勿れ」とあるからだ。単純に考えると、「旧約聖書」を聖典とするユダヤ教徒が人間を殺すことは「戒」を破ることになるのではないかと思っていた。
しかし、今日、図書館から『講義 宗教の「戦争」論 不殺生と殺人肯定の論理』(東京大学出版会)を借りてきて、最初の講義、「宗教と戦争を考える」を読みはじめたら、こういう記述にあった。
「ユダヤ教の正典は、「まともな人間」だけ殺してはならないと説いているのです。モーセは「出エジプト」に際し、神のご加護で海を割り、海底を歩いて渡って対岸に着いたところで海を元どおりにして、追ってきたエジプト兵の大軍を溺死させたと旧約聖書には書かれています。ユダヤ教は聖戦を認めますから、神に背いて義を犯す者は殺してよいのです。」
「ユダヤ教はユダヤ教徒に害をなさない「まともな人間」以外を殺すのは構わず、イスラームでも、ムスリムを害する者を殺すことは許されるとしています。」
なるほど、である。パレスチナ人は、「義を犯す者」「まともな人間」ではない、ということなのだ。
しかしムスリムも、人間を殺している。イスラームは、「ムスリムを害する者を殺すこと」が許されているという。
ユダヤ教も、イスラームも、人を殺すことが許されているということになる。ならば、どっちもどっち、ということになるのか。わたしは、そうは思わない。
歴史的にみれば、第二次大戦後にパレスチナの住民たちが平和に居住していた(ユダヤ教徒も)ところに、シオニストたちが入り込んで、パレスチナ人を虐殺し、追い出し、土地を奪い・・・・・という行為をした結果、イスラエルという国家が誕生している。
パレスチナ人をそのように迫害し、さらに現在のように、ジェノサイドにまで及んでいるシオニスト、イスラエルは、「義を犯す者」、「まともな人間」ではない、とわたしは考える。
わたしは生まれてから現在まで、暴力とは無縁の世界に生きてきた。暴力的なケンカはしたこともない(子どもの頃姉弟げんかはしたことはある)。だから、人間と人間とが殺しあうという戦争は、まったく認められない。「非戦」(戦争はとにかく絶対にいけない)の立場である。
戦争については、「非戦」だけではなく、「不戦」(戦うべきではない)、「義戦」「正戦」(正しい戦争はやむを得ない)、「聖戦」(神が命じた信者が推進すべき戦い)があると、この本にはある。やはりわたしは、「非戦」である。
キリスト教徒も、多数の人間を殺している。世界史的には、キリスト教徒が、もっとも多くの人命を奪っている。
同書によると、
「原始キリスト教の段階ではすべての人間について殺してはいけないという不殺生戒があったとされ」ていたが、「コンスタンティヌス大帝が4世紀前半にキリスト教を公認し、4世紀末にキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会が権力と結びつくこととなり、ローマ帝国が行うやむを得ない戦争を認める義戦論が出てきます。戦争が認められると、すべての人間に対する不殺生戒は「まともな人間」に限定され、そうでない人間はその枠外だということになります。」
つまりキリスト教も、ユダヤ教やイスラームと同様の見解をもつようになった、というわけである。ただ、キリスト教の場合は、権力と結びつくことによって殺生を認めるようになったのだから、権力と結びつかないことが重要だということが成りたつ。
教会というある種の組織をもつことによって、組織がその存続のために自己運動をはじめ、組織のために権力と結びつくこととなるわけだから、教会という組織を持たないという選択は「非戦」のためには有効ということになる。だからだろうか、わが国の無教会派のクリスチャンの多くは、「非戦」の考え方が強いと思う。
いずれにしても、ユダヤ教、キリスト教、イスラームが、「まともな人間」でなければ殺してもよい、という考えであることは理解できた。