浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

殺生戒(暴力についての考察1)

2024-11-15 20:42:46 | 歴史

 なぜユダヤ教徒がつくったイスラエルは、ムスリムであるパレスチナ人を殺すことができるのか、という疑問を持っていた。なぜなら、「旧約聖書」の「モーセの十戒」には、「汝殺すこと勿れ」とあるからだ。単純に考えると、「旧約聖書」を聖典とするユダヤ教徒が人間を殺すことは「戒」を破ることになるのではないかと思っていた。

 しかし、今日、図書館から『講義 宗教の「戦争」論 不殺生と殺人肯定の論理』(東京大学出版会)を借りてきて、最初の講義、「宗教と戦争を考える」を読みはじめたら、こういう記述にあった。

 「ユダヤ教の正典は、「まともな人間」だけ殺してはならないと説いているのです。モーセは「出エジプト」に際し、神のご加護で海を割り、海底を歩いて渡って対岸に着いたところで海を元どおりにして、追ってきたエジプト兵の大軍を溺死させたと旧約聖書には書かれています。ユダヤ教は聖戦を認めますから、神に背いて義を犯す者は殺してよいのです。」

 「ユダヤ教はユダヤ教徒に害をなさない「まともな人間」以外を殺すのは構わず、イスラームでも、ムスリムを害する者を殺すことは許されるとしています。」

 なるほど、である。パレスチナ人は、「義を犯す者」「まともな人間」ではない、ということなのだ。

 しかしムスリムも、人間を殺している。イスラームは、「ムスリムを害する者を殺すこと」が許されているという。

 ユダヤ教も、イスラームも、人を殺すことが許されているということになる。ならば、どっちもどっち、ということになるのか。わたしは、そうは思わない。

 歴史的にみれば、第二次大戦後にパレスチナの住民たちが平和に居住していた(ユダヤ教徒も)ところに、シオニストたちが入り込んで、パレスチナ人を虐殺し、追い出し、土地を奪い・・・・・という行為をした結果、イスラエルという国家が誕生している。

 パレスチナ人をそのように迫害し、さらに現在のように、ジェノサイドにまで及んでいるシオニスト、イスラエルは、「義を犯す者」、「まともな人間」ではない、とわたしは考える。

 わたしは生まれてから現在まで、暴力とは無縁の世界に生きてきた。暴力的なケンカはしたこともない(子どもの頃姉弟げんかはしたことはある)。だから、人間と人間とが殺しあうという戦争は、まったく認められない。「非戦」(戦争はとにかく絶対にいけない)の立場である。

 戦争については、「非戦」だけではなく、「不戦」(戦うべきではない)、「義戦」「正戦」(正しい戦争はやむを得ない)、「聖戦」(神が命じた信者が推進すべき戦い)があると、この本にはある。やはりわたしは、「非戦」である。

 キリスト教徒も、多数の人間を殺している。世界史的には、キリスト教徒が、もっとも多くの人命を奪っている。

 同書によると、 

「原始キリスト教の段階ではすべての人間について殺してはいけないという不殺生戒があったとされ」ていたが、「コンスタンティヌス大帝が4世紀前半にキリスト教を公認し、4世紀末にキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会が権力と結びつくこととなり、ローマ帝国が行うやむを得ない戦争を認める義戦論が出てきます。戦争が認められると、すべての人間に対する不殺生戒は「まともな人間」に限定され、そうでない人間はその枠外だということになります。」

 つまりキリスト教も、ユダヤ教やイスラームと同様の見解をもつようになった、というわけである。ただ、キリスト教の場合は、権力と結びつくことによって殺生を認めるようになったのだから、権力と結びつかないことが重要だということが成りたつ。

 教会というある種の組織をもつことによって、組織がその存続のために自己運動をはじめ、組織のために権力と結びつくこととなるわけだから、教会という組織を持たないという選択は「非戦」のためには有効ということになる。だからだろうか、わが国の無教会派のクリスチャンの多くは、「非戦」の考え方が強いと思う。

 いずれにしても、ユダヤ教、キリスト教、イスラームが、「まともな人間」でなければ殺してもよい、という考えであることは理解できた。

 

 

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【本】姜尚中『維新の影 近代日本150年、思索の旅』(集英社)

2024-11-15 17:13:52 | 

 本書は、共同通信が配信した、姜さんの「思索の旅」を書籍化したものである。したがって、研究書ではないし、一般向けに書かれているので、深く掘り下げた内容ではないが、姜さんらしく、きわめて知的で、読んでいていろいろ刺激を受ける。

 それぞれのテーマに関して深く掘り下げているわけではないが、記述の裏に厖大な知の集積があることがよくわかる。記述の中に、文献が引用されているが、それ以外の記述に於いても、たくさんの文献を渉猟し読んでいることが推測できる。

 2018年が明治維新から150年ということで企画されたもので、当然、過去を振り返るのだが、現在に対する鋭い問題意識をもって振り返るので、記述は過去と現在が響き合う。

 第一四章と終章が、全体のまとめとして有意義である。維新以降の歴史が、現在ともつながり、敗戦が介在していても、変わらないものがあることを示す。それは国家の「酷薄さ」であり、「むごさ」であったし、また変わらぬ「精巧な機械のように合理的に行政を処理できる組織としての官僚」であった。それらが引き起こす災厄のなかで捨てられていった人々。

 姜さんは、そういう人々への共感を示し、同時に知識人と言われる人々の「無力」を記す。

 たしかに、わたしが若い頃の知識人は躍動していて、あるべき世論を創り出していたように思う。しかし今、知識人は、一方では国家に組みするようになり、他方、知識人達の国家への影響力、社会全体への影響力は大きく減じている。

 本書は、近代150年の歴史と現在に、どのような影があったのかを探索し思索する、姜さんの旅をしるしたものだ。

 あまり難しくないので、通読することをすすめたい。

 

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