浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「世界史」を読む

2024-12-28 20:07:37 | 学校・教育

 高校の教科目に「歴史総合」ができてから、いったい何年になるのだろうか。今までの世界史と日本史の近現代史が一緒にされて「歴史総合」となり、そのあとに「日本史探究」「世界史探究」を学ぶということになっている。

 この「歴史総合」について少し勉強しようと思い、岩波新書の『新しい世界史へー地球市民のための構想』(羽田正)、『世界史とは何かー「歴史実践」のために』(小川幸司)の二冊を読んだ。いずれも触発される内容であった。羽田は大学の教員、小川は長野県の高校教員である。

 羽田は、副題にあるように「地球市民」をつくりだすための世界史をつくろうという、ある種無謀な構想を抱いたものだが、新鮮な内容であった。最近、わたしも実感しているが、若い研究者のタマゴには、「なぜそのテーマを研究するのか、現代においてそのテーマを研究する意義は何か、という点について、歴史研究者は、十分自覚的でなければならない」と書くほどに、そうした自覚が感じられない。羽田は、この点について、「地球市民」意識をつくりだすための世界史を提案する。現在、ロシア・ウクライナ、パレスチナその他、世界各地で戦乱が起きているし、また気候変動が地球上の生物に危機的な状況を生みだしているから、そうした提案は、難しいけれども、取り組むべき課題であると思う。ただ、今までの世界史の研究が、それぞれの地域、国の研究に特化しているから、「地球市民」の立場から世界の歴史を構想するのはまったくもってたいへんなことだと思う。

 小川の本は、歴史教育に携わっている者には、必須の文献ではないかと思った。わたし自身もたいへん参考になったが、しかし小川はこの本を書くに当たって、また授業を展開するにあたって、厖大な文献や資料を博捜して組み立てている。歴史教育は、そうでなければならない。

 小川は、「ノートや穴埋めプリントを用意しません。教科書と生徒のタブレットパソコンに配信する資料プリントが主な教材」だと書いている。わたしも現職時代は、毎時間複数の資料プリントを用意し、それに沿った授業を行った。その資料をつくるためには、厖大な時間とカネを要した。小川がこの本を書くに当たっての文献が各章ごとに記されているが、まことに多い。しかしたくさんの文献その他を渉猟しないと、授業に効果的な、あるいは子どもの歴史認識に影響を与えることができるものは手に入らない。

 ただし、そういう教員はまれだ。ほとんどの教員は、穴埋めプリントか歴史的事項をただ書きこむだけのノート(すでに印刷されたもの)を使用し、書き入れるべき用語を書入れさせるだけの授業を行っている。いろいろな文献を読んで授業を組み立てる教員なんか、今はほとんどいないだろう。現職の頃、若い頃は別として、同僚と授業に関係する文献について話したことは一度もない。出入りしている書店主から、先生方が最近本を買わなくなったという愚痴を聞いたのはかなり前だ。

 だいたいにして、部活動の顧問をしたいから教員になったという社会科教員がかなりいた。野球などの部活動の顧問をしていたら、本を読む時間はない。

 小川は、子どもたちに問いを持たせる授業を提唱している。問いを持つことにより、より深く歴史について考えることができるはずだから。

 小川は問いを持たせるということだけではなく、有益なことを提起している。それは市民向けの歴史講座でもいかせる内容にもなっている。時にこういう本を読むと、いろいろ考えさせられる。

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巨星だったのか?

2024-12-28 09:11:52 | 社会

 今日の『中日新聞』東海本社版は、SUZUKIのトップであった鈴木修氏(以下、敬称略)が逝去したことに関する記事で埋め尽くされている。一面トップはいうまでもなく、10面、11面、16~17面、社会面(28~29面)は見開きである。同社は、号外までだした。

 このように、『中日新聞』が鈴木修について紙面を埋め尽くしたのには理由がある。SUZUKIが何らかの発表をする際には、まず『中日新聞』に報じさせ、その後に他社に報じさせるということが続いていた。その慣習は、ある記者から始まった。その記者はもう亡くなったが、わたしの仲の良い友人であり、このブログの読者でもあった。

 そのある記者について、志方一雄(編集委員)さんが書いている。彼が若い頃、鈴木修の取材に行ったときに鈴木宅の門柱に接触した、正直に弁償しますというと、それを契機に「修さんにかわいがられ」るようになったというのだ。この話について、彼から聞いたことはない。彼はもとは業界紙にいて、中途で『中日新聞』に入り、経済担当になった。彼は静岡から浜松に住居を移したが、彼の家を訪問したとき、SUZUKIのマークが入ったボールペンをもらったことがある。かなり早い段階から、鈴木修と接触していたようだ。しかし彼は「かわいがられ」たが、実力者におもねるような人物ではなかった。「かわいがられ」てしまったのである。

 わたしは、鈴木修についてなんらの感情も意見ももっていなかった。

 しかし、浜松市が周辺の市町村を「併合」して現在の浜松市となったときのことだ。わたしは、自治体が大きくなることが、決して良いことではないと考えていた。地方自治は、団体自治と住民自治によって構成されるが、広域自治体になると、住民自治は影が薄くなり、自治体行政が住民から離れていくことを危惧していたからだ。だから、知り合いの議員などに、広域合併はよくないと伝えていた。当時の市長、北脇くん(高校で一緒だったので、くんづけにする)は、その欠点を補うために、旧市町村には地域協議会を設置し、区を、静岡市のように3区ではなく、7区を設置しそこに区協議会を設け、住民自治を軽視しない姿勢を示した。その新しい浜松市が誕生したその日、鈴木修は、新聞一面をつかい、この住民自治を担保する制度に噛みついたのである。当時、鈴木修は、政令指定都市には区の設置が必須のものだという認識も持っていなかった。

 SUZUKIは、いわずとしれた、徹底的にコストを削減した経営、スズキ式生産方式を行っていた。そんな鈴木にとって、住民自治に配慮した制度はまったくムダだと思ったのだろう。

 北脇くんが市長になったのも、鈴木修にかつがれたからだ。その北脇市政に、鈴木修は浜松商工会議所をバックに強く介入を始めた。浜松市行財政改革推進審議会をつくらせ、その初代会長におさまり、市政に関してさまざまな注文を出し始めた。今は知らないが、当時市が作成した文書の宛先は、市民ではなく、その同審議会であり、審議会への回答という内容であった。あまりの強引な注文に、さすがの北脇くんも音を上げ、鈴木修と離れていった。すると、次の市長選に鈴木康友(現在は県知事)を擁立して、市長選をたたかい、康友を当選させた。したがって、康友の顔は常に鈴木修をみていた。そうしなければ落とされてしまうからだ。ちなみに、鈴木修は票を握っていて、敵対する者を落としたり、近寄ってくる者は当選させることができる。

 そして康友に、地域協議会をなくさせ、区を7から3にさせた。そして浜松市がいろいろなところに出していた補助金を廃止させ、SUZUKIをはじめとした企業への補助金へと変えていった。

 このように、鈴木修は市政に口を出して、市政を牛耳ってきた。県営浜松球場の新設計画も、鈴木修の希望である。現在浜松市には、陸上競技場と市営球場が隣り合って存在しているが、陸上競技部をもつSUZUKIは、野球場をなくして、現在の陸上競技場を規模を大きくしてつくりなおさせたいと考えていた。その希望は徐々に実現の方向に動いている。

 わたしは、SUZUKIそれ自体にはなんら関心を持っていない。SUZUKIについて、入社した労働者の離職率が高いこと(おそらく労働が過酷なのだろう)、外国人労働者をたくさんつかっていること、安価な部品しか使わないなどコスト削減を徹底させていること、くらいしか知らないし、SUZUKIの車は乗りたいとも思わない。

 ただ、鈴木修の浜松市政や県政への強引な介入に、わたしは怒りを抱いていた。少なくとも、浜松市政は、鈴木修にとって大きく歪められたという認識を持っている。

 鈴木修は、あの世で、わたしの友人と会っているのだろうか。友人が亡くなったとき(突然の死であった)、わたしは愛知県の彼の自宅を訪ね、奥さんとともに涙を流した。

 彼は最後の仕事として、SUZUKIのインド会社の歴史を書いていた。その際、歴史の書き方についていろいろ尋ねられた。その本が刊行される直前に彼は逝ってしまったから、わたしはその本がどうなっているのかは知らない。

 

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