浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「魂の連帯」

2024-12-30 21:21:48 | 

 『ユリイカ』のハン・ガン特集号を読む。すべてを読み終えたわけではないが、そのなかで佐藤泉さんの「腐肉の愛しさ」に大きな衝撃を受けた。ハン・ガンの『少年が来る』『別れを告げない』を深く読み切っているという印象を持った。

 「人間はどうしようもなく体を持っていて、そのため恥辱を抱えて生きていかなければならない」

 これが、佐藤さんの通奏低音である。このことばで、ふたつの作品を読み解くのだ。

 魂と体(肉体)。わたしの魂は、わたしの体と共にある。しかし、その魂と体は、いつも協調しているのではない。魂がよりよき生を求めて生きんとするとき、体は魂と協調してそのように生きさせるようなことはしない。体は、魂を裏切るのだ。

 「私の意識の統御を超えて、病み、老い、死んで、腐る。私の身体は私が在ることから切り離すことはできないが、それは私の内の他者なのだ」と佐藤は書く。

 激しい拷問が襲いかかってくるとき、良き生き方をもとめる魂が苦痛に耐えようとしても、体は苦痛に耐えられない。他者としての体が暴力に耐えきれなくなり、体が体としての役割を放擲するとき、魂も体と共に消えてしまう。体と共に、魂も死ぬ。

 拷問でなくても、光州で戒厳軍の銃弾に斃れた場合でも、魂は消えていく。だが、ハン・ガンは腐っていく体、死臭を放つみずからの体を見つめる魂を描く。死後に於ても、ハン・ガンは、魂と体を融合させる。

 ハン・ガンは、みずからの体と魂を融合させるだけではなく、他者のそれとも融合させる。それは、現実に光州で起きたからだ。

 佐藤は、画家・洪成潭の経験を記す。ジャージャー麺の出前持ちの少年は、市民軍の一員として光州を守る。少年に、洪らは帰りなさいという。しかし少年は、「ぼくは生まれてはじめて人間的な待遇を受けました。それもすべての市民から。だからぼくが代わりに守らなければならないのです」、死んでも悔いはない、と。

 洪はこう書く。「私たちは本当に美しかった。光州抗争の十日間、そのコンミューンの美しい記憶だけで、私は一生幸福に生きていける」。

 「魂の連帯」。このことばを佐藤さんがつかっているわけではない。魂は、体と魂が協調しているときも、体が魂を支えることができなくなったあとでも、魂は他の魂と連帯することができる。わたしは、佐藤泉さんの文を読んで、「魂の連帯」ということを学んだ。ハン・ガンのふたつの小説は、時空を超えて、人間の魂と魂は共鳴し、魂が連帯できることを示したのだと思った。

 しかし魂は、その魂を支えていた個としての体とまったく分離しているものではない。体が体としての働きを失っても、その体に刻印された諸々のことは、魂とともにありつづける。

 光州や済州島に於て、国家権力により発動された暴力が、個々の魂と体に対して吹き荒れたのだ。

 近代に於ける朝鮮半島は、いつ終わるともなく国家の暴力が襲いかかっていた。人びとは、その暴力に魂と体を奪われていった。そうした人びとは、しかし歴史のなかで忘却されてよいわけではない。魂と体は、それぞれがもっていた個人としての尊厳を取り戻さなければならない。

 かつてそれぞれが体と魂を協調させていたこと、それを、現在魂と体を協調させている者たちが、「魂の連帯」により、呼び戻さなければならないのである。

 

 

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「態度を養う」

2024-12-30 10:12:53 | 学校・教育

 文科省が作成して学校現場を強く拘束する学習指導要領。以前はそのなかに「態度を養う」という語句が多用されていたが、最近は少なくなっているようだ。しかしわたしは、「態度を養う」という意味がわからない。

 たとえば、小学校の学習指導要領の「外国語」。そこに、「主体的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度を養う」とある。要するに、「主体的に外国語を用いてコミュニケーションを図」る、のではなく、それらしく振る舞えば良いということから「態度を養う」とするのだろう。「特別活動」でも、「自主的,実践的な集団活動を通して身に付けたことを生かして,集団や社会における生活及び人間関係をよりよく形成するとともに,人間としての生き方についての考えを深め,自己実現を図ろうとする態度を養う。」とある。

 日本の学校では、「それらしく振る舞うこと」が求められるのだ。つまり外面、そとづらを重視するのである。

 さて、昨日の『東京新聞』、「本音のコラム」で、前川喜平さんが「小学校~それは小さな社会~」という映画を見た感想をこう書いている。

 冒頭は、新一年生が家庭内で給食の配膳の練習をする場面。さらに教室の机を目測しながらまっすぐに並べる児童の姿が映る。新一年生の担任教師は「腕を耳に当てて」と挙手の仕方を教える。六年生の担任教師は、体育の授業の開始時刻に全員が揃わなかったことをきびしく叱る。提出物を忘れた児童にはタブレットを取り上げる罰を与える。音楽教師は、合奏の練習で暗譜してこなかった一年生を叱責する。教師は児童に「殻を破る」よう促すが、破った先に求めるのは、教師の規範意識にかなう児童像だ。教師の規範意識は確実に児童間の同調圧力になる。脱いだ上履きはかかとを揃えておくこと。係の児童は靴箱の中を点検して〇や△で評価し、タブレットで証拠写真を撮る。教室では背筋を伸ばして着席すること。係の児童は各人の座り方を点検し、正しく着席した者の名を挙げる。コロナ対策でマスクを着用すること。マスクをする児童が、マスクをしない児童を「良くないね」と言う。こうして規律正しい「良き日本人」がつくられる。ここには障害のある子も、外国ルーツの子も、性的マイノリティの子も、不登校の子も登場しない。この映画の原題は「The making of a Japanese」だ。

 「態度を養う」というのは、こういう子どもたち、日本人をつくりだすための、文科省のやりかただ。

 登校しない、できない子どもたちが増えている。あたりまえだ。こんな学校なら、行きたくもない。教師が設定する(それは、文科省ー教育委員会ー学校長へと下された命令でもある)規範に従うという「態度」なんて、クソくらえである。

 今学校では、子どもたちがおとなしくなっているそうだ。反抗精神が抑えられ、「規範」に息苦しさを感じる子どもたちが学校に行くことを拒否する。おとなしい子どもたちが教室を埋める。

 日本の未来は暗いといわざるをえない。

 

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