講談社文芸文庫の『故郷と異郷の幻影』を読む。読み終えたら私の元を去る本である。
木山捷平の「ダイヤの指環」は、日本の敗戦直後に「満洲」に生きたことを回顧する。国家の後ろ盾など支えるものが消えた状況の下では、ひとりの人間として生きていくしかない。ただの人間同士の交流を振り返る。
辻邦生の「旅の終り」。辻邦生の作品は読んだことがない。この小品を読んで、このひとの作品は読まなくてもよかった、と思った。少しも心が動かされることはなかった。
石牟礼道子の「五月」。重い、重い作品である。強いられた水俣病、それに苦しめられる患者たち。肉体の苦しみを描く場面は重く迫ってくる。反面、ふつうに生活できていた時期の回想は、軽やかに語られる。重く、また軽やかに、それが交互にやってくる。
「安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。」
綴られたことばが、ことばなのに重い。重いことばは、しかし創造的なのだ。
『世界』に金石範の「夢の沈んだ底の『火山島』」が掲載されている。これにも、私は支えられない重さを感じた。
重いことばの背後にぴったりと人びとの生死がくっついているからだ。
「記憶を喪失した人間は人間ではない。」「眼は開いていて見えない。耳は眼の横についていて聞こえない。口があっても話せない。」「ことばが、軀のなかから離れない。ことばが離れようとしても恐ろしい苦痛で、ことばが軀から取れない。出てこない。」「忘却に歴史はない。」
「記憶の殺戮と記憶の自殺両方を背負って、限りなく死に近く沈んでいた忘却からの蘇生。それが歴史に対する意志であり、完全に死に至っていなかった記憶の勝利だ。生き残った者たちによる忘却からの脱出、暗闇の底から一人、二人と語り始めた証言が、氷河に閉じこめられていた死者の声をよみがえらせる。はじめの一歩だが、その記憶の勝利は歴史と人間の再生と解放を意味するだろう・・・」
ことばが新たな意味を持って創造されていく。文学の有効性は、こうしたことばの創造をおこなうことにより、実証されていく。
私がやってきた歴史叙述の力のなさよ。