浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】将基面貴巳『反逆罪ー近代国家成立の裏面史』(岩波新書)

2024-12-07 13:27:09 | 

  何となく購入し、何となく読み終えた。どのようにこの本の内容を記していけばよいのかわからない。しかし、読み続けていったのだから、何ともいえない魅力が存在したのだろうと思う。

 「反逆罪」を中心にして、イギリス、フランスの歴史が叙述されているのだが、それがなかなか興味深く、読んでしまった。著者は映画にも詳しくて、数カ所に映画の紹介がなされていた。そのひとつ、フランス映画の「デリシュ」(Amazon Prime)をみたが、これがなかなかよかった。フランスの農村部の美しさ、そしてフランス革命へと向かう社会の状況がそのなかに描かれ、深部での民衆の意識の動きが静かに描かれていた。

 本の内容については、著者が終章でまとめているので、それを読めばよい。

 印象に残ったのは、「反逆罪」であるから、当然その罪を犯したとされれば処刑される。その処刑の方法がまた残酷極まりないものであった。首つり、内臓を抉って焼却、首の切断、身体を四つ裂きにする、これはひとりの人間に対しておこなわれる処刑である。首の切断までは受刑者は生きているわけだから、何とも凄まじい。これはイギリスのことであるが、フランスでは特権身分の者は斬首、民衆は絞首刑。その後、すばやく受刑者を死に至らしめるための「人道的な」方法として、ギロチンが生みだされた。これは身分に関わりなく「平等に」おこなわれた。

 人間の歴史は、暴力の歴史でもある。古今東西、暴力が吹き荒れていて、溜息が出てしまう。

 「反逆罪」についての認識も、時代の流れと共に変化していくが、近代国民国家の成立のなかで、ナショナリティーを国民がもつなかで、国家権力だけではなく、庶民までもが「国賊」などということばで、「反逆者」を糾弾するようになっていく。

 著者は、「反逆罪」を考察するにあたって、「マイェスタス」をキー概念にして論じている。「マイェスタス」とは、古代ローマの「威光」という意味のことばである。ヨーロッパ法は、ローマ法やゲルマン法の影響を受けながら発達していくのだが、「反逆罪」に関してはローマ法の「マイェスタス」概念が生きつづけたようだ。

 著者は末尾で、こう書いている。

戦後80年が経過しようとしている今日、政治に対する無関心が広がっている印象が強い一方で、SNSを中心に反逆罪のメタファーによる政治的レトリックが巷にあふれている。ある特定の政治的主張をもつ個人や集団を「国賊」、「非国民」あるいは「反日」などという言葉で罵倒する行為は「あまりに品性を欠き卑劣で真剣に受け止めるに値しない」と無視したくなる誘惑にかられるかもしれない。だが、こうした政治的レトリックが幅を利かせることで露わとなる政治的分断は、決して坐視して済ますことのできない問題をはらんでいる。が反逆罪のレトリックの背後には、究極的な忠誠対象に必ず随伴するマイェスタスへの崇敬感情が潜んでいるからである。自分が信奉する忠誠対象のマイェスタスが「国賊」によって毀損されているという危機感が少なからぬ人々の間で共有されているのである。

 これは日本のネトウヨの動きについてであるが、しかしわたしは彼らが「国賊」とか「反日」とか汚いことばで罵倒するとき、かれらのなかに明確な「マイェスタスへの崇敬感情」が存在しているとはとても思えない。彼らは、半ばうっぷん晴らし、あるいは遊びとして(彼らはいつもニヤニヤしている!)そうした行為をおこなっているのであって、「自分が信奉する忠誠対象」を明確に意識しているわけではないだろう。ある意味で、罵倒する行為に対する「忠誠」とでも言いうるのではないだろうか。

 【付記】昨日から、急にアクセス数が増えている。このブログで、いったい何に関心を持ったのだろうか。このブログには「アピールチャンス」というのがあるようだが、わたしは一度もつかったことはない。書きたいことを書く、それにアクセスする方がいる、それだけでうれしい、と思いながら綴っている。

 

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