今日静岡市に行き、一つの講演を聞き、一本の映画を見た。
講演は、『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜行社)の著者・栗原康氏である。しかしボクは、この著者は大杉を誤解している。いやそうではなく、栗原氏は、みずからの生き方を正当化するために大杉を利用している、と思った。
栗原氏は高校三年生の時、大杉の「自我の棄脱」を読んだ。その「自我の棄脱」を掲載しておこう。
兵隊のあとについて歩いてゆく。ひとりでに足並が兵隊のそれと揃う。
兵隊の足並は、もとよりそれ自身無意識的なのであるが、われわれの足並をそれと揃わすように強制する。それに逆らうにはほとんど不断の努力を要する。しかもこの努力がやがてはばかばかしい無駄骨折りのように思えてくる。そしてついにわれわれは、強制された足並を、自分の本来の足並だと思うようになる。
われわれが自分の自我──自分の思想、感情、もしくは本能──だと思っている大部分は、実にとんでもない他人の自我である。他人が無意識的に無意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である。
百合の皮をむく。むいてもむいても皮がある。ついに最後の皮をむくと百合そのものはなんにもなくなる。
われわれもまた、われわれの自我の皮を、棄脱してゆかなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのもののなんにもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱してゆかなくてはならぬ。このゼロに達した時に、そしてそこからさらに新しく出発した時に、初めてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げてゆく。
思想はわれわれの後天的所得である。しかし感情はわれわれの先天的所得である。そこでわれわれは、われわれの思想の上には比較的容易に批判を加えうるのであるが、しかしわれわれの感情の上にはほとんど常に盲目である。感情の大部分は、ほとんど本能的のものとみなされて、至上の権威をもつもののごとく取り扱われる。また多くの思想は常にこの感情を基礎として築き上げられる。かくして感情は、自我の皮の中の、とかくにもっとも頑強なものとなりやすい。
感情もしくは本能は、生物本来の生きんとする意志から出発して、生存欲と生殖欲とに分かれ、さらにこの二つがその周囲の事情によって千変万化してゆく。われわれはこの千変万化の行程の中に、われわれの理知と直覚とを十分に働かせなくてはならぬ。なんとなればその間に他人の無意識的もしくは、意識的強制が多分に含まれているからである。
いわゆる文明の発達とともに、人類の社会は、利害のまったく相反する二階級に分かれた。すなわち征服階級と被征服階級とに分かれた。この事実は、人間本来の感情を、その各個人の利害のために発達させないで主として征服者の利害のために屈折させた。そして数万年間のこの屈折の歴史は、ついにわれわれをして今日われわれの所有するほとんどすべての感情を、人間本来のものと思わしめるまでにいたった。
感情とはきわめて縁の近いわれわれの気質も、多くの場合に、この征服の事実によってはなはだしく影響されている。もっと根本的に言えば、感情や気質の差別を生ぜしめるわれわれの生理状熊そのものまでが、この征服の事実によって等しくはなはだ影響されている。
かくしてわれわれは、われわれの生理状態から心理状態にいたるすべての上に、われわれがわれわれ自身だと思っているすべての上に、さらに厳密な、ことに社会学的の、分析と解剖とを加えなくてはならぬ。そしていわゆる自我の皮を、自分そのものがゼロに帰するまで、一枚一枚棄脱してゆかなくてはならぬ。
棄脱は更生である。そしてその棄脱の頻繁なほど、酷烈なほど、それだけその更生された生命は、いよいよ真実に、いよいよ偉大に近づいてゆく。
(1915年5月)
大杉は、自分の自我であると思っているものの大部分は他人の自我である、そのような自我を、「自分そのものがゼロに帰するまで」「棄脱」せよといっている。栗原氏は、その自我を「負い目」あるいは「負債」と理解し、その「負債」をゼロにせよと言う。
しかし自我=「負い目」「負債」なのだろうか。栗原氏の主張をまねれば、「負い目」や「負債」とみずからが考えるものを「棄脱」してゼロにする。「生の負債化からの解放」(講演での栗原氏のことば)?
「負い目」とは、『大辞林』では「助けてもらったり、つらい目にあわせたりしたことについて負担に思う気持ち」、あるいは「負債」「借金」である。自我とイコールでは結べない。
講演の最初は、栗原氏の経済状況の説明から入り、大杉の「自我の棄脱」との出会いであった。さてボクは、帰宅して彼の著書の「あとがき」を読んだ。そこにあるエピソードが記されていた。
あるとき彼の靴がなくなった。しかし彼には靴を買うカネがない。友人たちのカンパを得て、栗原氏は靴を買うことが出来た。その後、「ひとや物に親切にされて、みずからの自由を感じとりながら、わたしはだんだんこうおもうようになっていった。無理にはたらく必要なんてないじゃないか。本が読みたい。研究がしたい。やりたいことをやろうとしているだけなのに、四の五の言う(なんのかのと文句を言うー引用者注)ひとがいるのであれば、そんなたわごとはもう聞く耳もたずだ。忘れてしまおう。」(280頁)と。つまり「負い目」を「負い目」と感じないでやりたいことをやって生きていこう、というわけだ。
「あとがき」には、栗原氏の大杉のとらえ方が記されている。栗原氏の論に欠けているのは、次のことだ。
今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである。(大杉「生の拡充」)
つまり「反逆」の精神がない。
栗原氏は、大杉を客観的に捉えることができないし、またみずからを客観視することもできていない。栗原氏にとって大杉の思想は、栗原氏の「生」を正当化するためにのみ存在している。
講演は、『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜行社)の著者・栗原康氏である。しかしボクは、この著者は大杉を誤解している。いやそうではなく、栗原氏は、みずからの生き方を正当化するために大杉を利用している、と思った。
栗原氏は高校三年生の時、大杉の「自我の棄脱」を読んだ。その「自我の棄脱」を掲載しておこう。
兵隊のあとについて歩いてゆく。ひとりでに足並が兵隊のそれと揃う。
兵隊の足並は、もとよりそれ自身無意識的なのであるが、われわれの足並をそれと揃わすように強制する。それに逆らうにはほとんど不断の努力を要する。しかもこの努力がやがてはばかばかしい無駄骨折りのように思えてくる。そしてついにわれわれは、強制された足並を、自分の本来の足並だと思うようになる。
われわれが自分の自我──自分の思想、感情、もしくは本能──だと思っている大部分は、実にとんでもない他人の自我である。他人が無意識的に無意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である。
百合の皮をむく。むいてもむいても皮がある。ついに最後の皮をむくと百合そのものはなんにもなくなる。
われわれもまた、われわれの自我の皮を、棄脱してゆかなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのもののなんにもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱してゆかなくてはならぬ。このゼロに達した時に、そしてそこからさらに新しく出発した時に、初めてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げてゆく。
思想はわれわれの後天的所得である。しかし感情はわれわれの先天的所得である。そこでわれわれは、われわれの思想の上には比較的容易に批判を加えうるのであるが、しかしわれわれの感情の上にはほとんど常に盲目である。感情の大部分は、ほとんど本能的のものとみなされて、至上の権威をもつもののごとく取り扱われる。また多くの思想は常にこの感情を基礎として築き上げられる。かくして感情は、自我の皮の中の、とかくにもっとも頑強なものとなりやすい。
感情もしくは本能は、生物本来の生きんとする意志から出発して、生存欲と生殖欲とに分かれ、さらにこの二つがその周囲の事情によって千変万化してゆく。われわれはこの千変万化の行程の中に、われわれの理知と直覚とを十分に働かせなくてはならぬ。なんとなればその間に他人の無意識的もしくは、意識的強制が多分に含まれているからである。
いわゆる文明の発達とともに、人類の社会は、利害のまったく相反する二階級に分かれた。すなわち征服階級と被征服階級とに分かれた。この事実は、人間本来の感情を、その各個人の利害のために発達させないで主として征服者の利害のために屈折させた。そして数万年間のこの屈折の歴史は、ついにわれわれをして今日われわれの所有するほとんどすべての感情を、人間本来のものと思わしめるまでにいたった。
感情とはきわめて縁の近いわれわれの気質も、多くの場合に、この征服の事実によってはなはだしく影響されている。もっと根本的に言えば、感情や気質の差別を生ぜしめるわれわれの生理状熊そのものまでが、この征服の事実によって等しくはなはだ影響されている。
かくしてわれわれは、われわれの生理状態から心理状態にいたるすべての上に、われわれがわれわれ自身だと思っているすべての上に、さらに厳密な、ことに社会学的の、分析と解剖とを加えなくてはならぬ。そしていわゆる自我の皮を、自分そのものがゼロに帰するまで、一枚一枚棄脱してゆかなくてはならぬ。
棄脱は更生である。そしてその棄脱の頻繁なほど、酷烈なほど、それだけその更生された生命は、いよいよ真実に、いよいよ偉大に近づいてゆく。
(1915年5月)
大杉は、自分の自我であると思っているものの大部分は他人の自我である、そのような自我を、「自分そのものがゼロに帰するまで」「棄脱」せよといっている。栗原氏は、その自我を「負い目」あるいは「負債」と理解し、その「負債」をゼロにせよと言う。
しかし自我=「負い目」「負債」なのだろうか。栗原氏の主張をまねれば、「負い目」や「負債」とみずからが考えるものを「棄脱」してゼロにする。「生の負債化からの解放」(講演での栗原氏のことば)?
「負い目」とは、『大辞林』では「助けてもらったり、つらい目にあわせたりしたことについて負担に思う気持ち」、あるいは「負債」「借金」である。自我とイコールでは結べない。
講演の最初は、栗原氏の経済状況の説明から入り、大杉の「自我の棄脱」との出会いであった。さてボクは、帰宅して彼の著書の「あとがき」を読んだ。そこにあるエピソードが記されていた。
あるとき彼の靴がなくなった。しかし彼には靴を買うカネがない。友人たちのカンパを得て、栗原氏は靴を買うことが出来た。その後、「ひとや物に親切にされて、みずからの自由を感じとりながら、わたしはだんだんこうおもうようになっていった。無理にはたらく必要なんてないじゃないか。本が読みたい。研究がしたい。やりたいことをやろうとしているだけなのに、四の五の言う(なんのかのと文句を言うー引用者注)ひとがいるのであれば、そんなたわごとはもう聞く耳もたずだ。忘れてしまおう。」(280頁)と。つまり「負い目」を「負い目」と感じないでやりたいことをやって生きていこう、というわけだ。
「あとがき」には、栗原氏の大杉のとらえ方が記されている。栗原氏の論に欠けているのは、次のことだ。
今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである。(大杉「生の拡充」)
つまり「反逆」の精神がない。
栗原氏は、大杉を客観的に捉えることができないし、またみずからを客観視することもできていない。栗原氏にとって大杉の思想は、栗原氏の「生」を正当化するためにのみ存在している。