なぜか『世界』が大晦日に届いた。『世界』の発売日は、通常、7日か8日だったのではと思った。『世界』とほぼ同じ体裁をもつ『地平』が、毎月1日に届けられるので、競争意識が働いたのか。ちなみに『地平』は届いていない。
今月号の内容はなかなか読ませるものが多い。おいおい紹介していくとして、韓国文学の翻訳者、斎藤真理子さんが、ハン・ガンの小説について、「大勢の人が無言のままで抱えてきた、一人の人生では支えきれない無念さや悲しみの質量。私的領域にとどめておけるはずがなく、公の領域で共有されることが許されない、だからこそとめどなく湧いてくる悲しみの総量。」と書いている。
済州島4・3事件で、「大勢の人」が韓国という国家と米軍により虐殺され、「大勢の人が」はかることができないほどの「悲しみ」を抱えてきた。しかし、その後に続く、長い長い独裁政権の下で、「公の領域で共有されることが許されない」時代が続いた。「悲しみ」の総量は、減るどころか、増える一方であった。「悲しみ」は、忘れられるのではなく、それが表出できないとき、さらにさらに増していくのだ。
その「悲しみ」が、ハン・ガンの『別れを告げない』や、『少年が来る』に、これでもか、これでもかと描かれる。読む者は、その押し寄せる「悲しみ」の波間をみつけながら読み進むのだ。
戦争をはじめとした暴虐が、庶民の生活を襲う。その暴虐は、国家権力が主体である。ロシア・ウクライナ戦争、イスラエルによるガザでのジェノサイド・・・・・・世界各地で新しい、それもはかりしれない「悲しみ」を生みだしている。
2025年、どうか、もう新たな「悲しみ」をつくらないでほしい、と願わざるを得ない。
ところで、こういう映画があることを知った。
イスラエルによるジェノサイドが行われているガザで、「大勢の人が」生きている、生活している。踊り、凧を揚げ、足に名前を書き、とにかく生きている。その姿が、ここに描かれる。もちろん「大勢の人」の「悲しみ」は、日々、いや一瞬一瞬、つぎつぎとつくられ、それらは蓄積されている。わたしたちは、その蓄積される「悲しみ」を知る。
「悲しみ」は、ウクライナでも、その戦場でも、つくられ、蓄積されている。しかし、わたしは戦争をはじめたロシアで、「新春コンサート」がおこなわれ、着飾った者たちが集い、音楽を楽しんでいる姿をみる。
同時的に、人殺しと演奏会がある。この落差に、わたしは、さらに心を痛めるのだ。