浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

無責任と責任

2017-12-27 07:36:41 | その他
 管理職の意向を忖度しないで生きている者はあまり多くはない。管理職が強い姿勢を示せば、多くの者はなびく。そういう姿を私は見てきた。なぜか。管理職とことを構えたくはない、管理職によく思われたい、などの俗情があるからだ。また管理職によく思われないと「出世」(昇進)していかないからだ。

 私は労働者の権利を守る闘う組合の一員であったから、当初から「出世」はありえず、管理職の意向を忖度することなど一切してこなかった。ストライキにも参加し、処分も何度かされてきた。おかしなことはおかしいと指摘し、こうすべきであると思ったことはそう主張してきた。

 そういう組織や個人がいたから、管理職の意向が組織全体を覆うなんてことはなかった。

 JRとして民営化される前、日本国有鉄道には、国鉄労働組合というそういう組合があった。そこで働く人びとは、日本の輸送の基幹を担う者としての誇りと自覚、同時にその安全を維持する使命を抱いて仕事をしていた。

 ところが、日本全体の新自由主義化(私企業の最大利益を最大化する考え)にとって、そういう組織が邪魔であると判断した支配層は、国鉄労働組合に最大限の攻撃をしかけた。その手段となったのが国鉄の分割民営化であった。日本国有鉄道は民営化され、国民の財産であったものが私企業化され、株主のものとなった。そして国鉄は分割された。日本の鉄道は、ばらばらにされた。

 昨日、北海道の鉄道が寒波襲来により運休が相次いだというニュースがあった。ただでさえ人口が減り、路線が廃止される中、北海道単独では鉄道事業が維持できないようになっている。だからさらに路線を減じ、労働者も減らしていく動きを示す。地方の交通網は急速に消え去っている。地方では生活することがむつかしくなってきている。

 他方、カネもうけできる場を承継した、JR東日本、JR東海、JR西日本。彼らはカネもうけを最大限の原動力にしている。利用者の便益よりもみずからの利益を、というのが会社の方針である。

 JR西日本は大きな事故を起こした。経営者の、スピードをあげろ、他社に負けるな、経営者の思い通りにならないと懲罰だ、などと労働者を駆り立てた。それに抵抗する組織はもうなかった。そして事故が起き、多くの人が犠牲になった(JR西日本に殺された)。事故の中で運転手は亡くなった。経営者は自分たちに責任はない、悪いのは労働者だというスタンスをとり続けた。それは今も変わらない。『朝日新聞』がその責任者にインタビューした。

 そのなかで彼は、事故原因について、「運転士が悪い。『脱線していいから走れ』と言ったことはない」と述べた、という。こういう厚顔無恥の経営者が、国鉄の分割民営化のなかで育成された。

 JR東海は、リニア新幹線建設を強行し、日本の大自然を破壊し始めた。自然は、きっと報復することだろう。しかしその際、日本の歴史が物語っているように、ほんとうに責任を負わなければならない者が責任を負わない。「無責任の構造」というが、「無責任」は支配層に分けられ、「責任」は庶民に分けられる。

 こういう社会を、日本人は許してきた。今もである。


 
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独裁者への隷属

2017-12-26 21:35:49 | その他
 高杉一郎の本、高杉一郎に関する本を読んでいると、高杉にとってシベリア抑留の経験は重大な重みを持つ。スターリニズムは、ナチスのナチズムと同様に全体主義であり、また独裁政治である。

 引用されているものを読むと、スターリンに対してこれ以上ないような賛辞を捧げている。人間がこんなにも政治指導者に最大限の賛辞を捧げる姿は、現在でも北朝鮮に見られるが、私にはその心性が理解できない。

 しかし、近代日本でも同じような状況があった。天皇に対してのそれである。

 日本だけでなく、世界各地で独裁政治が存在するということは、人間の心性の中にそういうものを求めるものがあるのだろう。もちろんそれが普遍的に存在するというのではなく、ある条件が整うと独裁を受け入れるような人間が増えていくのだろう。

 そのある条件というものを、安倍政権は研究してるのであろうか。今日の『東京新聞』の「核心」欄は、

 
第2次安倍政権5年、お決まり手法  2017/12/26

 2012年12月の第2次安倍内閣発足から26日で5年。この間、安倍晋三首相が繰り返してきたのは「経済政策を掲げて国政選挙に臨む→多くの議席を確保→こだわりの外交・安全保障政策を推進する」というサイクルだ。内閣支持率が下落傾向になると、新たな内政のキャッチフレーズで世論の批判をかわしてきた。


 というものであった。

 経済で釣って、独裁的な体制を構築していくという方法である。後者の体制は一挙にはできないがために、多くの人びとはほとんど問題にしないのだ。ゆでガエルで、いつか気がついたときにはもう手遅れ、ということになりかねない。

 テレビや新聞の力、と書いて、しかしそれはもう無力化している。どうしたらよいか。
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『高知新聞』コラム

2017-12-26 18:56:32 | その他
 私は共同通信のHPにアクセスして、『高知新聞』、『信濃毎日新聞』のコラムを読む。

小社会 今年も政治家の失言、暴言に怒り、嘆かされた1年…

 今年も政治家の失言、暴言に怒り、嘆かされた1年だった。「震災がまだ東北でよかった」「学芸員が一番のがん」「このハゲー」…。平然と言い放ったあの顔、この顔が思い浮かぶ。

 数々の放言は事実誤認のケースが多い。その意味で安倍首相のこの言葉も忘れがたい。4年前の五輪招致の際、福島第1原発の汚染水漏れについて「状況はコントロールされている」と述べた。しかし今も制御できてはいない。

 未曽有の事故後、高まった「原発はもうやめよう」の声に対しても国は一定の再稼働を進める。根拠は首相らが「世界一厳しい」と言う新規制基準による「お墨付き」。この世界一も「眉唾もの」と思っていたのだが。

 伊方原発の運転を差し止めた広島高裁の判決。理由は阿蘇山の噴火リスクだった。この判断、新規制基準にきちんとのっとっている。原発から一定距離にある火山の噴火規模が推定できない場合、過去最大を想定し、被害が小さいと判断できなければ立地はできない、と。

 火山列島の日本。この考え方を忠実に適用すれば、多くの原発の稼働が難しくなる可能性が出てくる。眉唾どころか首相の言葉通り、新基準は世界一厳しいといえるだろう。

 核のごみの後始末や、いざ事故が起きた際の莫大(ばくだい)な対策費。あれこれ考えるにつけても、原発はやっぱり割に合わない。厳格な規制に基づいて退場願うのが、大方の国民の思いにもかなう。
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『愛媛新聞』コラムともう一つ

2017-12-25 20:50:44 | その他

風刺のない笑い

2017年12月25日(月)(愛媛新聞)
 「ヒトラーという男は、笑いものにしてやらなければならない」。80年前、チャプリンは笑いで戦争を止めようと新たな映画づくりを決断した▲

 ヒトラーを風刺した映画「独裁者」。ドイツがポーランドに侵攻してから2週間後に撮影が始まると、米国政府はドイツを刺激するのを嫌い、圧力をかけてきた。屈しなかったのはコメディアンとしての誇り。笑いやユーモアは権力に対して大衆が持ち得る武器であり、自らが手放してはならないとの信念が伝わる▲

 今も米国では毎夜、その日の政治家の言動をコントにして笑い飛ばすテレビ番組が人気。日本もかつてそうだったが、最近は風刺を取り込んだ笑いをあまり見かけない▲

 それだけに今月の特別番組で、お笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」が披露した漫才には引きつけられた。一人は原発が立地する福井県おおい町出身で「夜7時になると町は真っ暗。電気はどこへゆく」。沖縄の米軍基地問題と東京五輪を比べ「楽しいことは日本全体のことにして、面倒くさいことは見て見ぬふりをする」▲

 スピード感あふれる語り口で、被災地復興などの社会問題を次々にバッサリ。批判一辺倒ではなく「皆で問題を一緒に考えよう」とのメッセージがこめられているとも感じた▲

 チャプリンは日本の芸能を好み、訪れる度に劇場に足を運んだ。「風刺のない笑い」が席巻する今の日本を見たら、きっと苦笑いを浮かべるだろう。


 安倍首相との焼肉会食を松本人志が被害者ヅラで言い訳! 武田鉄矢も「権力批判はカッコつけ」と松本擁護
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極右のデマにはきちんと反撃を

2017-12-25 17:27:57 | その他
 ただ単に気にくわないからと、朝日新聞を攻撃する人々がいる。私は何故にそんなに朝日新聞に憎悪を持つかの、その理由が分からない。事実に基づかない虚報やこじつけなど、およそ言論とは言えないような罵詈雑言を書きつづって朝日新聞を攻撃する、ということに対し、朝日新聞が提訴したことは、当然のことである。

 森友・加計問題の著書巡り文芸評論家らを提訴 朝日新聞


http://www.asahi.com/corporate/info/11264607
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静岡へ

2017-12-24 22:14:16 | その他
 今日午後、静岡へ行った。「〈天皇代替わり〉をめぐる、憲法・民主主義の問題」という講演を聴きに行った。天皇制に反対している女性が講師であった。

 およそ90分間の講演を聴いたが、表面を撫でただけの内容で、まったく深みがなかった。この人はあちこちで講演をして歩いているようだが、聴衆は満足しているのだろうか、と思った。天皇制についての学問的な検討、法的、歴史的、社会的アプローチをしたことがあるのだろうか。

 この人の話には、「なぜ」を問う姿勢がなかった。現象を追いながら、それが「なぜ」起きているのかを考えることをしていない。

 レジメの「最後に」のところで、「天皇制そのものが違憲の制度であるという視点を取り戻す必要」とあった。私はこういう書き方が嫌いである。日本国憲法には第一章があり、そこには象徴天皇制が規定されている。もちろん基本的人権の観点から見れば、天皇一族の存在は違憲だと言うこともできるが、しかし天皇は国民ではなく、象徴としての国家機関なのであるから、上記の論を展開するならそれ相応の理論が必要だろう。

 それに今回の「生前退位」については、それなりの経緯があり、同時に戦時体制期の天皇制をあるべき天皇制だと考えている安倍一派との矛盾など、今考えるべき論点があるはずだ。

 内容的には得るところまことに少ないものであったが、聴きながら何を考えなければならないかを、導き出すことができたのでそれだけが成果か。

 
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【本】『高杉一郎・小川五郎 追想』(かもがわ出版)

2017-12-24 21:58:18 | その他
 この本は過去に一度手にしている。高杉一郎=小川五郎が亡くなってから一年経過したとき、高杉一郎に関わりがあった人びとの「追想」を集めて出版されたものだ。この本には市原正恵さんの文も掲載されていた。市原正恵さんの遺稿集を編んだとき、この本の中の「書物的めぐりあい」を読み、それに掲載した。そのとき、他の方の文は読まなかった。高杉一郎を「発見」していなかったからだ。

 高杉一郎は「大きな」人であったようだ。「大きな」というのは、別に体が「大きい」というのではない。精神の面で、「大きい」というのだ。知識、知性、感性、理性、精神のあらゆる面で「大きい」人であったと思う。この本に書かれたすべての人の文を読み、そう思った。

 これを読み、一度でもお目にかかって話を聞きたかったと思う。あるいは講義を聴きたかった。

 高杉の本には「知」がいっぱい詰まっている。その「知」の一端に触れることができた人は幸せだと思う。

 たくさんの人の「追想」はすべて読み甲斐がある内容を持つが、とりわけ印象に残ったところは、小野民樹というもと岩波書店の編集部にいた人の文(170)・・・・  

高杉さんに、どうしてシベリアから生還できたのかと聞いたことがある。慌てず急がずでしょう、たとえば食事。スープの列に早く並ばないと、それでなくても少ない固形物が皆無となる。しかし、われ先にと人を押しのけて、いつも先頭に並んだ人はみんな死にましたよ・・・

 泰然自若、そういう運命に際会したときには、慌てず騒がず、運命の誘うままにたゆたうということなのだろうか。


 もう一つ。高杉が勤めていた改造社が、東条政権下で解散させられた。その直後、高杉に召集令状がきた。それについて石原静子さんはこう書いている(202)。和光大学の退職した教員である高杉にインタビューしたときのものだそうだ。


 日中から太平洋へと戦争が広がる中、36歳の「老兵にも赤紙、つまり一兵卒としての召集令状が来た。・・・小学校の同期生はまだ誰一人出征していなかったから・・・、懲罰召集ではないか、と言われた」

 そうだろうと思う。東条政権はそういうことをしていた。戦場に行かせ、「合法的に」殺す、のである。

 そういう時代を、高杉は生きたのである。高杉の周囲にいた人々の「追想」が、高杉という人間を明らかにしていく。確かに魅力的な、そして「大きな」人間であった。


 
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秋葉信仰

2017-12-24 20:28:07 | その他
 昨日は、岡崎市美術博物館へ。展示は、「三河の秋葉信仰ー火伏の神の系譜」である。

 秋葉信仰は、現在浜松市になっているが、旧春野町の秋葉山の山頂にあった秋葉三尺坊大権現が火伏の神として崇められたことによる。廃仏毀釈・神仏分離政策によって、秋葉三尺坊大権現があった秋葉寺が権力的に「廃寺」とされ、秋葉寺を乗っ取った秋葉神社が、記紀神話の火迦具土神(伊弉諾、伊弉冉の子で、誕生の際に母を焼死させたため、父に斬り殺された)を勧請して山頂に「鎮座」している。

 この秋葉信仰は江戸時代に広まり、秋葉原という地名で知られるように、全国各地で分祀され、全国各地から講を組んで代参するようになった。もちろん三河は近いから、多くの人が参詣していた。

 三河の人びとは、秋葉三尺坊を分祀したり、秋葉講をつくったりした。展示では、そうした三河の秋葉信仰がどういう状態であったのかをというものであった。

 秋葉三尺坊の姿は天狗である。天狗の源流は、インドのヒンズー教の神、ガルダだそうで、それが修験(山伏)とつながったようである。
だから天狗を祀るところはほとんど山の中にある。

 三河の寺院には、天狗姿の三尺坊像がつくられていた。それが展示されていた。

 全体的に、秋葉信仰についての説明はなされていたが、明治初年の神仏分離政策についての説明は少なかった。なぜ秋葉信仰が分裂しているのか、この説明は不可欠だと思う。

 秋葉神社が栄え、廃寺とされた秋葉寺が、秋葉山の中腹に再建されたが、あまりぱっとしない。秋葉寺こそ、秋葉信仰の本家であるにもかかわらず。



 
 
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NHKのこと

2017-12-23 20:56:05 | その他
 NHKの失礼な徴収員(?)、前回来たときには、カーナビでテレビが見られるなら受信料を払えと言ってきたことは、すでにここに記した。私は、カーナビでテレビを見られないように改造してもらった。どのようにしたかはわからない、しかしテレビにあわせると「圏外」とでて映らない。もちろんNHKだけではなく、すべてのチャンネルが見られない。

 これで、NHKのろくでもない番組をわが家に送ってくる電波はすべてシャットアウトした。政権の広報機関と化しているNHKと、レベルの低い番組を垂れ流している民放も含めて、すべてお断りである。

 今までモーツアルトを聴きながら読書し、そして今こうしてブログを書いている。テレビのないすばらしい生活が続いている。

 NHKの回し者が来たら、カーナビに映らないことを見せてやろうと思っているが、一向に来ない。

 こういう記事を見つけた。NHK職員の高給ぶりがここにも記されている。

今のNHKに「受信料制度」は本当に必要なのか  放送法の理念とは大きくかい離している
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【本】東京歴史科学研究会『歴史を学ぶ人びとのために』(岩波書店)

2017-12-23 13:06:34 | その他
 東京歴史科学研究会らしく、問題意識鮮明の文が並ぶ。ただひとつ、経済史についての文は、「経済史を学ぼうとする人びとへの入門」というもので、現実との緊張関係をもたない、つまり問題意識もなく、この一文だけが異質な感じがした。新自由主義の波が歴史学にも押し寄せているとき、経済史はどうそれに立ち向かうかというような啓発的な内容のほうがしっくりいったのではないか。

 さて巻頭は須田努である。なぜ今この本を編集して刊行するのかを単刀直入に記したものだ。東京歴史科学研究会がこうした書物を刊行するのは4度目。しばらく刊行されていなかったのに、なぜ?という問いに真摯に答えようとする。

 歴史学とは何か、と問い、こう記す。

 歴史学とは、現代的課題や、現実の政治・社会との緊張関係を持つ学問なのです。歴史とは、流れるものでも、うつろうものでもありません。現在に繋がるものなのです。過去の出来事は無限・無数に存在します。その中から一定の目的・意図に従い、断片的事実を確定しつつ選択し、それを現在に繋がるものとして紡ぐ(構築する)、ということが歴史学という学問なのです。

 私自身もそうした気持ちで歴史に臨み、現実との緊張関係をもちながらテーマを決めてきた。

 ところが、1990年代には「言語論的転回」(これを説明するのはなかなかしんどいので割愛)が起こり、歴史学に動揺が走った。しかし私は、そういう言説がでてきても、史料をもとにしながら事実を確定し、同時に今までの研究の蓄積を咀嚼しながら歴史像を描いていくという方法は間違いではないと思い、それを墨守してきた。

 須田はその後、「歴史認識」について言及している。

 ・・・現代社会に発生したさまざまな出来事を歴史的文脈から考えるセンス(歴史的洞察力)や体系的・全体的な歴史の見方を会得し、現実の社会や国家の“よりよい”あり方を考え、その中に自己を位置づけ、どう行動すればよいか、といった普遍的構想力・判断力を身につけることなのです。

 まったく違和感なく受け入れられる内容である。

 この文の後に、鮮明な問題意識をもった文がならぶのだが、いずれも啓発的なもので刺戟を受けた。近年は近現代史の本しか読まなくなっているので、長谷川裕子の文からは学ばせていただいた。近世における平和について、近代日本との対比で評価することを話しているので、それに関する研究史が紹介されていて参考になった。また朝鮮史への関心をもっているので、加藤圭木の文も。

 本書は図書館から借りだしたもの。返さなければならないので、急いで読んだものである。
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【本】高杉一郎『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店)

2017-12-23 08:59:17 | その他
 この本は、刊行と同時に購入し、一度は読んだものだ。市原さんという、著者と交流があった女性から薦められ、購入して読んだ。しかし私は、高杉の『極光のかげに』しか読んだことがなく、高杉についてほとんど予備知識なく、ある意味薦められたから義務的に読んだのだろう。記憶のなかに何も残っていなかった。

 しかし、今は違う。高杉一郎という人物に最大の関心を抱き、彼が体験し、読み、考えたことなどすべてを知りたいという思いが強い。

 高杉は自由で強靱な知性をもって、軍国主義化の日本で編集者として生き、兵として「満洲国」に送られ、その後4年間シベリアの「集中営」(コンツ・ラーゲリ)で4年間を生き抜き、その体験を対象化して分析し、それを内面化して戦後を生きた。

 高杉はマルクス主義者ではなく、終生リベラリストであった。であるが故に、強靱であった。

 マルクス主義者は、軍国主義日本の権力に厳しく弾圧され、その結果「転向」という厳しい生を選ばざるを得なかったし、またマルクス主義とそれに基づいて構築されたソビエト国家を、その実態を知らぬままに、あるいは知っていても、擁護するという虚構の世界に生きた。リベラリストは、根拠もなくむやみに何ものかを擁護するということはしない。みずからの体験や知性により、その何ものかが何であるかを判断する。曇っためがねをかけることはしないのだ。

 おのれの知性と体験からの感性とで、世界や人を見る。宮本百合子、中野重治、シベリア帰りの純粋な学徒で政治に殺された菅季治、務台理作など。そしてそこに宮本顕治が一瞬出て来る。高杉が書いたその一瞬の出来事が、宮本顕治という人物の本質を穿つ。

 本書は、自らの人生を振り返って、その人生の途上における出会いや体験を再度捉え直すというもので、今までに読んだ本に記されていることも多い。だが、その出会いや体験を、きちんと書籍にあたりそれを客観的にあとづけるという作業を経た上での叙述であり、であるが故に、読み手の私にはより感銘深いものとなる。

 同時に、高杉の読書量の多さに驚く。彼の知性は、読書を基盤として、自由で自立した思考によって生み出されたもののようだ。

 そして文章もすばらしい。書こうとする内容に過不足なく、冗長さがいっさいない。

 ただし、書かれている内容は、その前提となる知識がないと理解できないような気がする。軍国主義化の日本の出版統制や苦境に追いやられた作家たち(とりわけプロレタリア文学者たち)、シベリア抑留、ソ連史、エスペラント、中国文学等々。

 「教養」が等閑視されてからもう長い時間が経過している。高杉の著書を、感動を持って読むことができる人は減っていくことだろう。

 私にとっては、何ともすばらしい本である。

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新自由主義が元凶だと思うが・・・

2017-12-22 09:24:00 | その他
 『朝日新聞』の「論壇時評」は歴史社会学者の小熊英二が担当している。

 21日に配信されたそれを読むと、「弱者への攻撃 なぜ苛立つのか」というテーマでまとめられていた。

 『中央公論』の1月号に木村忠正の「ネット世論で保守に叩かれる理由」という文章が掲載され、小熊はその内容を紹介している。

 それによると、在日コリアンなどに対して「ゴキブリ死ね」などと侮蔑する投稿をネットにしている人たちの基調は、「弱者利権」の批判なのだそうだ。
 彼らが「弱者」とするのは、生活保護受給者、沖縄、LGBT、障害者、ベビーカー使用者など。投稿者たちはこれらの人々が立場の弱さを利用して権利を主張しているとみているという。

 要するにネットで過激な言葉で、「弱者」を攻撃している人たちは、「マジョリティとして満たされないと感じている人々」であると木村は想定している。

 「そんな弱者や少数派より、俺たちこそ優遇されるべきだ」と彼らは考えているのだそうだ。

 そして小熊は、これは日本だけではないと指摘する。

 たとえばドイツ。旧東ドイツの炭鉱地帯だったザクセン州、移民排斥運動の参加者たちが政府の高官に「長官さんよ、いつも難民と一緒なんだろう、どうしておれらを統合しようとしないんだ」と語る。難民への怒りを表すとすぐに今度はじぶんの話を始める、というのだ。

 ここでも、「俺たちこそ優遇されるべきなのに、なぜ新聞や政治家は、移民などの少数派や弱者に目を向けるんだ」という意識があるという。

 中国でも、豊かになった中流階級も、「少数派」への不寛容があるという。『ニューズウィーク日本版』で、ジェームズ・パーマーが記したことを、小熊はこうまとめている。

 
 「不公正な世界を前にしたとき、人間は精神的な防衛機能として、世の中は公正だと思い込もうとする」。そして「他人の苦しみを正当化する理由を探し、自分は大丈夫だと根拠もなく安心したくなる」。つまり、現状を変えられない自分の無力を直視するよりも、今の秩序を公正なものとして受け入れ、秩序に抗議する側を非難するのだ。


 そして、

 急激に変動する現場に苛立ちながら、それをで制御できない無力感を抱く人に、不寛容が蔓延する状況は共通する。ここでの決定要因は政治的経済的な無力感と疎外感の程度で、必ずしも所得の多寡ではないようだ。そして世界各地では無力感の反映としての投票率低下、少数派への不寛容、新たな権威主義が広がる。

 と書いている。

 経済的な要因ではないと小熊は見ているようだが、私は新自由主義的な思考がまん延しているのだと思っている。新自由主義的な思考は、決して経済的なレベルのものではなく、個人の倫理的な側面にも大きく規定力をもつ。その思考とは、極端な利己主義、たとえば、自分だけがよければいいのだ、自分だけが儲かればいいのだ、という思考である。したがって、たとえば、自分が出した税金が、「弱者」にいくのは許せない、おれのところに返せ、ということになる。実際、企業や富裕者はそうしたことをしている。

 新自由主義と闘うこと、その思考をくつがえすような思想が求められていると思う。そうした思想は、しかし過去の思想の中に、実はあるのだ。

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何という理不尽

2017-12-22 09:05:27 | その他
昨日届いた『週刊金曜日」の「風速計」には佐高信の、「中国残留孤児への男女差別」という文章があった。それを読んであきれかえった。日本の官僚の驚くべき対応が記されていたのだ。

 残留孤児の男性が中国人の妻と子供を連れてくる場合は、すべての費用を日本が面倒みる。しかし残留孤児が女性で中国人男性と結婚し夫と子ども連れで日本に渡ってきたときには、その費用は全額自己負担となっていたというのだ。

 日本に帰る前に1週間から10日くらい北京で日本のことを学ぶのだそうだ。風呂の入り方や日本のお金のつかい方、挨拶の仕方など。

 男性孤児の場合は妻子とも宿泊施設に一緒に泊まれてご飯も無料で食べさせてもらえる。ところが女性孤児の場合は夫は一緒に泊まれないので子どもと共にどこか別の宿を探して過ごさなければならない。

 日本にきてからも、男性孤児の場合は家族にも旅館が用意され、ふとんもみんな1組ずつあって日本語を勉強するテープレコーダーが支給される。ところが、女性孤児の家族の場合は、弁当もふとんもテープレコーダーも支給されない。

 佐高はこれは1981年当時と書いているが、今は亡き土井たか子氏が厚生省に抗議したそうだ。それでもその後4~5年はそのままだったという。

 何という男女差別。こういう仕組みをつくった役人どもの、歴史感覚のなさ(なぜ彼らは残留孤児となったのか!)、人権感覚のなさ、こういう仕組みをつくって何とも思わない人間的感情の麻痺。

 IWJで、野党の国会議員らが森友・加計学園問題を追及している動画を見ても、官僚たちの答弁、関係のないことをだらだらと話して、問いには誠実に答えない姿をみていると、彼ら役人の本性がわかるというものだ。そういう輩が日本の政策を立案し実施している。



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大逆事件を忘れない

2017-12-21 20:01:49 | その他
 1910年、管野すがや幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画をたてたということから、熊本や新宮の人びとが逮捕され、国家権力により殺された。そのなかに、新宮の医師・大石誠之助がいる。

 今では、明治天皇暗殺を計画したのは数人で、それも具体性がほとんどない計画であったこと、それ以外の人びとはすべて冤罪であったことが明らかになっている。

 この事件で逮捕され、殺された人びとの復権は、必ずなされなければならない。

 そのうち、新宮市議会は、大石誠之助を名誉市民にするという。『朝日新聞』記事。

和歌山県新宮市の市議会は21日、明治時代の大逆事件に連座して刑死した同市出身の医師、大石誠之助(1867~1911)を名誉市民にするよう市長に推薦することを決めた。市議会は2001年、「新宮グループ」とされる大石ら6人は弾圧事件の犠牲者だとして名誉回復を宣言する決議をしているが、復権と顕彰へさらに踏み込んだ。

 

大逆事件で刑死した「毒取ル先生」、故郷で名誉市民に
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日本の非常識

2017-12-21 18:04:27 | その他
 テレビメディアの非常識はもういうまでもないが、今回もその非常識がまかりとおったようだ。

 トランプ大統領の側近であった、極右のバノン。虚偽のニュースを垂れ流していたブライトバートというネットメディアの主宰者でもあった。しかし今、アメリカでは相手にされなくなっているその人を、産経新聞社と幸福の科学が招いた。「類は友を呼ぶ」である。

 ところが、そのバノンにあの民進党を破壊しようとした前原が会って、感動したようだ。

 そしてテレビメディアが揃ってバノンを持ちあげたようなのだ。テレビを見る価値がないことを、ここでも示している。

産経と幸福の科学が目論んだ自称保守系イベントでのスティーブン・バノンの招聘に踊らされた人々
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