柳広司の『アンブレイカブル』を読み、今まで柳を知らなかったことを恥じた。そこで柳の『太平洋食堂』を読みつつ、岩波新書の『二度読んだ本を三度読む』を読んでいたら、東京Olympicに関わる個所を発見した。この本は2019年4月に刊行されている(岩波書店の『図書』で2017年10月から2019年2月まで連載)。2年以上前の記述であるが、新鮮である。2020東京オリンピックの問題点がきちんと記されている。
忘れてはならない。
柳の批判的知性に、私は感服している。その個所を紹介しよう。長いが我慢して欲しい。
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お祭(サーカス)は民衆にとっては政治を忘れるためのものであるが、権力者にとってそれは政治のための好機である。
という有名な定理があって、オリンピック(=お祭り)が権力者に政治利用されるのは、いわば当然の帰結であった。
勘違いされては困るが、スポーツ=オリンピックではない。
・・・・スポーツは本来、選手個々人のものだ。たとえ団体競技においても、その本質は変わらない。個人に還元されるべきスポーツの大会に国家単位で選手を派遣し、メダルを競わせる時点で、オリンピックは「国家主義」「国家発揚」の政治的意図を必然的に体現してしまっている。
かつてオリンピックは「アマチュアスポーツの祭典」と呼ばれた。アマチュアリズム村長を高らかに謳い、スポーツでわずかでも金銭を受け取った事実が判明すると選手名簿から除名、メダルを剥奪されるという徹底ぶりだった。 180度方針が転換したのは、 1984年のロサンゼルス大会からだ。大手スポンサーを率いれ、莫大な放映権料を設定することで、オリンピックは一転“もうかる商売”へと変貌した。資本主義という悪魔に魂を売った代償は、スポーツのショービジネス化と、なし崩し的なプロ選手の参加である。
オリンピック開催地を巡って多額の使途不明金が飛び交い、 IOC役員はスポンサーの金で世界中を豪華に旅してまわるようになった。各国政治家にとってもオリンピックは国民の税金を堂々と私物化する体(てい)の良い名目となり、政界や財界の面々がハゲタカのごとく群がった。
2013年、ブエノスアイレスで行われたIOC総会において、日本の首相は臆面もなく「汚染水は完全にブロックされている」と、事故現場で懸命に作業を続けている人々を唖然とさせる嘘をつき、流暢なフランス語をあやつる女性タレントが「お・も・て・な・し」を約束して、2020年の開催地は東京に決まった。国際オリンピック委員会連中がどんな「お・も・て・な・し」を期待してやってくるのか考えただけで寒気がする。帰国後、首相の嘘は取り巻きや財界から賞賛され、以後彼は嘘をつけば褒められると勘違いするようになった。
当初東京大会は「復興五輪」と呼ばれていた。東北や九州地方で起きた地震被害、さらには原発事故からの復興だという。
開催決定後、オリンピック関連施設の工事が国策となった。人材も資材も東京に集中、資材費人件費が高騰し、東北や九州では不幸が妨げられている。オリンピック関連の大規模工事は震災で焼け太りしたゼネコン各社に割り振られ、平然と談合が行われている有り様だ。
東京大会開催決定翌日、国営放送(NHK)は無論、民放テレビ各局、さらには大手新聞4紙がこぞって公式スポンサーに名乗りを挙げ、「東京オリンピック2020」への異議申し立ては事実上封殺された。「決まったからにはやるしかない」と、まるで「始めたからには勝つしかない」と国民を鼓舞した先の戦争時と同じことをマスコミをまた繰り返している。
昨今はさすがに「復興五輪」は無理があるらしく、広告代理店を中心にアスリート・ファースト」などと、何語なのかさえ不明な言葉が広まっている。もしくは広めようとしている。
すでに発表された東京オリンピック2020の日程は、 7月24日から8月9日。
近年急激に温暖化が進み、気候が東南アジア化してる日本・東京で、猛暑の8月、真っ昼間に激しいスポーツを行う?マラソンコースも発表されたが、それによれば「午前7時のスタートでもコースの8割が暑さ指数(というものがあるらしい)で厳重警戒レベルを超える」という話だ。
どこがアスリート・ファーストなのか?
ちなみに1964年の東京オリンピック開会式は10月10日。「まるで世界中の青空を東京に持ってきてしまったような素晴らし秋日和です」と思わず発したスポンサーの言葉が図らずも東京による地方簒奪の状況を暴露した事実はともかく、スポーツをするには悪くない季節だ。(中略)
良く知られている通り、8月の競技日程はアメリカを中心とするテレビ各局の都合である。10月では秋の番組編成に支障を来す。オリンピックは番組端境期の夏にこそふさわしい。ー
選手の都合ではない。明らかに莫大な放映権料を支払うスポンサーの都合だ。が、「スポンサー・ファースト」というフレーズは、なぜかなかなか広まらない。
かつて「参加することに意義がある」と謳われたオリンピックの精神はどこへやら、メディアは「勝てば官軍」、メダルを取った者たちだけに群がり、ほめそやす。メダルを取らなかった者は、たとえ世界第四位であっても“お呼びでない”という非情さだ。勝利至上主義、それもオリンピックがもたらした害悪である。
(中略)
今やオリンピックは選手を商品化し、搾取する、資本主義最悪の見本市と化した。
(中略)
選手よりスポンサーの顔色を窺うオリンピックなど本当に開催すべきなのか、私たちはいま一度足を止めて考え直すべきであろう。
あのエンブレムは、オリンピックの喪章としてもいけると思う。