柳の作品をはじめて読んだ。今までこの作家を知らなかったことを、私は恥じる。
「アンブレイカブル」とは、unbreakable 。Oxford Dictionary では、impossible to break となっている。「壊れない」という意味だ。しかし柳は、それを「敗れざる者」という意味で使っている。
本書は、4つに分かれている。「雲雀」、「叛徒」、「虐殺」、「矜持」であり、それぞれ「戦前」という治安維持法体制下に「逃れられぬ死に向かって歩み去った」「敗れざる者」が描かれる。「雲雀」では、小林多喜二、「叛徒」では反戦川柳をうたった鶴彬、「虐殺」では横浜事件に巻き込まれた中央公論社の和田喜太郎ら、「矜持」では哲学者三木清。いずれも治安維持法で殺された人々である。
もちろん実在の人物が描かれているといっても、いずれもフィクションである。柳の想像力がつくりだしたものだ。話の展開は意表を突く。しかしフィクションとはいえ、治安維持法とその担い手であった内務省官僚と特高警察らが生み出した実在の世界が描かれている。
それぞれの実在の人物をつなげるのが、クロサキという内務官僚である。クロサキは、治安維持法体制を体現する人物として描かれ、彼らを治安維持法という網にかけようと画策する。とにかく網にかけて逮捕し、拘留し、そして・・・・・、その後はどうでもよい、ただ網に入れればよいのだ。
最後まで、緊張感を持たされたまま、読み進む。昨夜読みはじめて今日読み終えた。手放せないのである。著者は「矜持」で、退歩された三木清にこう云わせる。
歴史や政治を分析し、的確な批判を加えるのは後世を生きる者の自由だ。歴史家にとってそれは權利でもあり、義務でもある。だが、同時代を生きる者には別の自由がある。あるいは権利と言い換えても良い。歴史的主体として歴史に参加する自由であり権利だ。権利や自由には、当然、責任が付随する。技術や能力不足のために予期した結果が得られなかった場合、後世の者たちからその責任を追及される覚悟が必要になる。
例えばいま、国家が間違った方向に進み、多くの犠牲を出しているのが明らかなら、最良の選択肢は今すぐ国家を停止させることだ。但し、巨大システムの即時停止は反動が大きく、付随して何が起きるか予見不可能だ。より大きな犠牲を生じる可能性もある。次善の策は、進む方向を少しでもましなように舵を切らせることだ。無論それは、君たち官僚のように国家をただ効率よく動かすことに比べれば遙かに大きな労力を要する。無駄な努力に終わるかもしれない。政治は結果責任の世界だ。どんな理想を掲げ、何をしようとも、結果によっては“抵抗”が“無批判の協力”と見做されることもあるだろう。
しかし、それでもなお、私は己が持つ力の全てを注いで歴史に参画する自由を、権利を、行使したい。参加した結果が後世“歴史”と呼ばれるのだとすれば、自分が生きているこの唯一の時間、唯一の歴史を、他人任せにしないで能う限りの力を尽くす。その上で、結果は後世の判断に任せる。それが、いまを生きていると胸を張って言える唯一のあり方ではないだろうか。それが、私にとっての唯一の矜持なのだ。(下線部分は、原文では傍点)
「虐殺」のなかに、こういう文があった。「知識を持つ者の目には未来が見える。同時に、それがいかに絶望的な未来だとしても、どうすることもできない。」「・・・正しい言葉が受け入れられるわけではない、未来をどうすることもできないことがわかっていながら、それでもなお知らずにはいられない者たちがいる」(160)
この小説は、「現在」に対する強い関心、問題意識をもって書かれている。
三木清の「幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」ということばが、巻頭に掲げられていた。