窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

太陽の文明

2007年12月09日 | レビュー(本・映画等)
 『日本語の源流を求めて』を読んだのをきっかけに、PHP新書の『龍の文明・太陽の文明』を数年ぶりに読み返してみました。こちらは黄河文明とは異なる一大文明がかつて揚子江流域に存在しており、やがて中原の漢民族により滅ぼされたことにより一部が現在の中国雲南省方面に、また一部が海を渡って南九州や富山・新潟方面に離散していったという説です。中でもこのようにしてたどり着いた南九州や上越・下越の越人たちが大和王権のルーツではないかという説は一般に信じられている朝鮮半島からの渡来人による征服説よりも説得力があり実に興味深いことです。現在の富山から新潟にかけて越前・越中・越後と呼ばれていたのはその裏づけではないかとも思えますし、僕自身高校生の頃日本史を勉強していて継体天皇が何故福井から呼ばれ即位したのか腑に落ちませんでしたが、それもこの説が正しいとすれば頷けます。

 本書のあとがきでも述べられていることですが、一般に日本人は海外からの文化を抵抗なく受容し、その良い部分だけを消化して自国の文化に取り入れる能力を本質的に持っていると信じられていますが、歴史を辿ってみると実際はそのような呑気な話ではなく、古くは隣接する華夷秩序から、近くは列強の帝国主義秩序からと常に強大な軍事的・文化的圧力の中で自国のアイデンティティを喪失しなねない危機感の中で外からの先進文化の摂取に努めてきたという、非常に緊張感を伴った営みであったことが分かります。しかしそれが可能であったのは日本人に「海外文化の良いとこどりをして自国文化に取り入れる」本質的な能力があったからというよりもたまたま周囲を海で守られ、民族の存立を脅かすような規模での異文化の流入を防ぐことができたから地理的要因にあったからと考えるほうが妥当です。したがって、もしこの危機感がないとすれば日本人に残るのは海外からの文化を何の抵抗もなく受容するという性質だけであって、それを今後もまた自分のいいように血肉化して独自性を保持できるであろうと考えるのは少々楽観に過ぎると思います。現在、特にインターネットの普及と期を同じくしてグローバリズムの名の下、文化の同質化の流れが顕著になりつつあります。そうした時に果たして現在のわれわれが通念として信じているとおり本当に海外から入ってくる文化を自身の存立に照らして取捨選択し血肉化する努力をしているであろうか、再考のときであると言えるでしょう。

龍の文明・太陽の文明
安田 喜憲
PHP研究所

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  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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コメント (1)
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