先日、京都の神泉苑に行ってきました。
神泉苑は元々、平安京遷都(794年)と共に大内裏(天皇の宮城)の南側に接するように造営された禁苑(天皇のための庭園)でした。水が絶えることなく湧き出ていた天然の泉を利用して造成された池を中心とした庭園で、当初は東西240m、南北500mにも及ぶ大規模なものでした。
余談ですが、京都の祇園祭は869年(貞観11年)にこの神泉苑の南端に当時の日本の国の数と同じ66本の鉾を立て、祇園社から神輿を出したのが始まりとされています。
この神泉苑を風水の立場から見ると、次のようになるのだそうです。平安京そのものが風水都市であったことは良く知られています。即ち、北(玄武)の丹波山地、東(青龍)の大文字山、西(白虎)の嵐山と三方を山に囲まれ、南(朱雀)には巨椋池と理想的な四神相応の地形をなし、北からのエネルギーがたまるポイントである龍穴には天皇の住む太極殿がありました。巨椋池は昭和初期の干拓事業によって失われてしまいましたが、それでも京都の南側は桂川と鴨川によって挟まれており、エネルギーを受け止める地形となっています。
しかし、龍穴に位置していた大内裏は戦乱などにより荒廃し、鎌倉時代中期には現在の位置に御所が移されています(京都御所)。朝廷の衰退がそのためなのかは分かりませんが、少なくとも建武親政(1333年~1336年)のわずかな時期を除いて、平安末期以降朝廷が政治の表舞台に立つことは明治に至るまでありませんでした。>
話を平安初期に戻します。古くから北西の方角は龍が運気を運んでくると信じられていました。龍は水の神でもあり、北西から南東へと抜けていきます。そのため、南東方向には龍の水飲み場となる池や湖があると良いとされていました。神泉苑はまさに平安京の北西方向から大内裏を通り、南東方向に抜ける位置にありました。実際、神泉苑は昔から龍神(龍女善王)が住んでいると信じられてきました。824年(天長元年)には空海により、ここで雨乞いの祈祷が行われています。
つまり、都の北西から神泉苑にかけては、朝廷にとって運気を運んでくるエネルギーラインであったということができます。1602年(慶長7年)、関が原の戦いに勝利した徳川家康は神泉苑を大幅に縮小した上、かつエネルギーラインを分断するかのように、神泉苑の真北に大規模な二条城を築きました(それ以前にも二条城と呼ばれるものは存在しましたが、位置が違います)。風水師でもあった僧天海をブレーンとし、江戸城や日光東照宮など江戸幕府の基盤を固めるために積極的に風水を活用した家康のことですから、ひょっとすると意図してこの位置に二条城を作ったのかもしれません。
この時代すでに御所の移転や巨椋池の縮小などにより、都の持つパワーは徐々に失われていたのですが、家康は徳川幕府安泰のため朝廷が幕府に対抗する力を完全に失わせようとしたのではないかという見方もできなくはありません。そして翌1603年、家康はこの二条城において征夷大将軍の宣旨を受けています。
それから264年後の1867年、同じ二条城において大政奉還が行われ徳川幕府が滅亡したというのは、歴史の皮肉というべきでしょうか。
神泉苑
京都府京都市中京区御池通神泉苑東入門前町167
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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