窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

岡山城(烏城)

2013年03月31日 | 史跡めぐり


  黒漆塗り下見板が大変美しい岡山城は、白漆喰塗りの姫路城(白鷺城)に対比して別名烏城(うじょう)とも呼ばれ、子供の頃から訪れてみたかった城の一つです。残念ながら元の天守閣は昭和20年の空襲で焼失してしまい、現在のものは1966年(昭和41年)に鉄筋コンクリートで再建されたものです。

  現在の岡山城は宇喜多秀家によって実に8年の歳月をかけて築かれ、1597年(慶長2年)に完成しました。『岡山城誌』によると岡山城は「安土城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にて五重…」とあり、織田信長の安土城を模して造られたと言われています。確かに、岡山城の天守台は不等辺五角形をしており、不等辺八角形の安土城天主台と共に、他に類をみない大変珍しい形をしています。



  では、城内を順々に見ていきたいと思います。まず、内下馬門(本丸の正門)跡の石垣(上写真左)。現在の大阪城にも蛸石と呼ばれる有名な巨石がありますが、当時は大名の権威を誇示するため、石垣に巨石を用いることが流行しました。この石垣は、1603年(慶長8年)以降、岡山城を継いだ池田氏によって築かれました。最大の石は高さ4.1m、幅3.4mありますが、横から見ると厚みのない石板であったことがわかります(上写真右)。



  大納戸櫓台の石垣。関が原の戦い(1600年)で敗れ八丈島に配流となった宇喜多秀家に代わり、岡山城主となった小早川秀秋によって築かれ、池田利隆(第四代城主池田忠継の異母兄)によって改修された野面積みの石垣です。



  中の段東西の石垣。同じく小早川秀秋によって築かれ、池田利隆が改修した石垣。左隅には第五代城主池田忠雄(ただかつ)が築いた割り石積みの石垣が被さっています。写真を見て分かるとおり、明らかに改修された石垣ですが、これは1999年(平成11年)から2001年(平成13年)の解体修理によるものです。この石垣の裏12mの位置に宇喜多秀家が築いた石垣が埋め込まれているそうです。



  鉄(くろがね)門跡(上写真左側)。ここには鉄板で覆われた櫓門がありました。上写真右側の櫓のような建物が不明(あかずの)門です。



  廊下門。



  旧天守礎石。昭和41年に天守が再建された際、鉄筋コンクリートだったことから、元の礎石をこちらに移設しました。



  六十一雁木上門。旭川に通じる門で段が61段あったことからこのように呼ばれました。



  もちろん再建の瓦ですが、丸瓦に五七桐の家紋が刻印されています。言うまでもなく五七桐は豊臣家の家紋です。宇喜多秀家が豊臣秀吉の養子となったことから、宇喜多家の剣片喰、兒文字の家紋に加え五七桐も賜ったものと思われます。



  天守閣裏側。内部は展示館になっています。



  1993年(平成5年)に発掘された、宇喜多秀家築城時の石垣です。



  廊下門と小納戸下の石垣(上写真右側)。第五代城主池田忠雄が1620年代に築いたもので、「犬島みかげ」で有名な岡山市犬島から石を運びました。犬島は花崗岩の山地で、大坂城や江戸城の石垣にもここの石が使われました。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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