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以前から行きたいと思いつつ、なかなか行けなかった彦根城へ行ってきました。別称である金亀城は、以前ご紹介した松山城の別称でもありますね。
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徳川家康の重臣、井伊直政は、1600年(慶長15年)関ヶ原の戦いの軍功により、近江(滋賀県)東部に18万石を与えられ、西軍の総大将であった石田三成の居城、佐和山城に入城しました。しかし、三成が整備したとはいえ中世山城で不便だったため、直政は当初磯山(米原市)へ移ることを考えていたようです。しかし、直政はそれを待たずして死去、遺志を継いだ家臣の木村守勝が幕府に願い出て、1603年(慶長8年)、佐和山と向かい合う金亀山に築城を開始しました。
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彦根は古くから中山道、北陸道が交わり、琵琶湖に接する(当時は彦根城の際まで琵琶湖の内湖でした)水陸の要衝でした。まだ大坂に豊臣氏が健在な時代であり、彦根城は天下普請による非常に堅固な城となりました。城下町は大規模な土木工事により湿地帯を埋め立て、計画的に造られました。
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外堀跡。元々は水掘で、並行する車道を含んだ幅がありました。この外堀は松原内湖からさらに琵琶湖まで通じていました。
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いろは松。表門橋に向かう、中堀の沿道の松並木です。元々47本あったことから、いろは松と名づけられましたが、現在残っているのは33本(内12本は補植)です。
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二の丸佐和口多聞櫓。中堀に開く四つの門のひとつ。守るに易く、攻めるに硬い枡形の構造になっています。現在の多聞櫓は、1769年(明和6年)~71年にかけて再建されたものです。
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馬屋。近世城郭でこれだけ大規模な馬屋が残っているのは、全国に例がありません。
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馬屋はL字型をしており、21頭の馬を繋ぐことができました。
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馬のいる馬立場。前方の馬つなぎ柱2本と後方の押柱2本で区画されており、馬つなぎ柱には手綱通しの金具が上下二段に設けられていました。上部には桁を渡し、猿耳を取り付けて馬の胴部を回す腹掛けを固定していました。
床は板張りですが、その下をすり鉢状の漆喰製叩きとし、底の方に排泄物を処理するための甕を配置しています。
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表門橋付近の、内堀に沿った石垣。日本本土の城郭の石垣は通常直線で、強度を保つためある程度の長さで折り曲げてありますが、この石垣は堀に沿って流麗な曲線を描いています。僕の知る限り、このように曲線を描いた石垣は本土では珍しいのではないかと思います。
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表門橋。明治初期の写真や文献をもとに、2004年(平成16年)に再建されたものです。
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登り石垣。「西生浦倭城」でご紹介したように、文禄・慶長の役の際、日本軍によって朝鮮半島南東沿岸部に多く築かれた、俗にいう倭城で多く用いられた帯状の石垣です。日本国内では非常に珍しいもので、松山城や洲本城にその例が見られるのみです。
<つづく>
彦根城
滋賀県彦根市金亀町1-1
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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