順序としてはこちらを先に訪問したのですが、昨日に続き、ほぼお隣の武家屋敷「石黒家」のご紹介です。石黒家は角館に残る武家屋敷の中で唯一、石黒家直系の子孫が現在も住み続けているところです。青柳家同様、薬医門から入ります(末尾のサムネイル画像)。薬医門というのは武家屋敷に用いられる門の形式で、親柱の後ろに控柱を立てて強化し、切妻屋根をかけた門を言います。石黒家の薬医門は、角館に残る武家屋敷の中で最古の文化6年(1809年)のものと言われています。
かつては身分の下の者が使用した脇玄関から座敷に上がり、その奥の部屋にある囲炉裏です。
座敷から見て左にあるのは、「おかみ」と呼ばれる当主の書斎です。
身分が同格か上の者が使用した表玄関。現在は使われていないそうです。
応接室として使われた座敷。床の間や書院が設けてあります。
この座敷には欄間(天井と鴨居との間に設けられる、採光のための開口部)に亀の透かし彫りが施してあります。襖を閉めると、外からの光で幻想的な亀が欄間に投影されます。かつては部屋の明かりはロウソクでしょうから、揺れる炎のため一層幻想的だったに違いありません。応接室に素敵な計らいですね。
母屋の奥の増築部分は蔵と繋がっており、蔵は資料館となっています。
例えば、雪国らしい藁沓や踏俵。踏俵というのは、大きな藁沓のようなものを履き、今でもあるのか分かりませんが缶下駄(缶ぽっくり)のように、中にある縄を持って交互に雪を踏み固める道具です。
米俵。
石黒家の陣羽織、甲冑、旗、陣笠。
日本刀、肥前国出羽守藤原行廣。江戸時代初期の名工、藤原行廣による肥前刀。肥前刀は鍋島藩の御刀鍛冶によって作られた名刀で、将軍家や諸大名への贈答用として用いられたそうです。
石黒家は代々、勘定役・財用役などの財政を担当しましたが、学問にも秀でた家柄だそうで、儒学・漢学の他、医学・和算・暦学などを修めた者も輩出したそうです。特に医学は熱心に取り組み、各種の医学書を揃え、武家でありながら病状の診断・治療や薬の調合なども行えたそうです。江戸時代後期の医師で、秋田藩(佐竹藩)に仕え、藩内で初めて種痘(天然痘の予防接種)を成功させた、高橋痘庵も石黒家の出身だそうです。上の写真は、薬量秤と鍼術針。
薬研(やげん:薬材を挽く道具)。
『大和本草』(貝原益軒が編纂した日本初の本草学書)、『医学綱目』(明代の医師楼英が編集した医学書)、そして『解体新書』。
石黒隼人祐直信は、家塾「紅翠亭(こうすいてい)」を開き、漢学を中心に、倫理や政治、歴史などの幅広い知識を藩士や町人の子弟に教えました。武士が町人に教育を施すことがこのような江戸から遠く離れた地でも普通に行われており、「近江商人博物館(東近江市五個荘)」でも書きましたが、町人にも教育が普及していたことは特筆すべきことだと思います。
歴史では、『大日本史』(徳川光圀によって開始され、水戸藩の事業として二百数十年継続した紀伝体の史書)。
倫理では、『義烈遺文』(主君への忠誠や家の名誉を重んじた武士の言行録や遺書をまとめたもの)。
また儒学では、『論語講義』や『言志録』(江戸時代後期の儒者、佐藤一斎の語録)などが展示されていました。
石黒家
秋田県仙北市角館町表町下丁1番地
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした