さんざん車で走り回った気がするのですが、実はオランダ広場のすぐ裏にあったというサンチャゴ砦とセント・ポール教会。あの無駄にした時間はいったい何だったのでしょうか…。
まず、丘のふもとにわずかに残るのが、1795年にイギリスによって爆破された、ポルトガルのサンチャゴ砦(ファモサ要塞)。現在は埋め立てられていますが、かつては海に面していたようです。1511年のマラッカ占領後に築かれ、往時はセント・ポール教会が建つ丘の周りを高さ5mにおよぶ城壁が囲み、現在唯一残る門のほか、さらに3つの門があったそうです。門の際に立っている、怪し気なマリオは無視してください。
展示されている大砲は、1700年代に作られたオランダ製のもので、ポルトガル時代に大砲が設置されていたかどうかは確認されていないそうです。
丘の上にはセント・ポール教会・礼拝堂跡があります。1521年に最初の礼拝堂が丘の上に建てられ、現在残るものは1566年に建てられました。当時は、カトリックであるポルトガルにより、ノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアダ(受胎告知の聖母)と名付けられていました。1641年にプロテスタントのオランダがマラッカを占領すると、聖パウロ教会と改名されました。その後、同教会は放棄され、18世紀には火薬庫として使われていたようです。手前に見える白い建物は、かつての灯台です。
さらにその手前には、日本でも有名なフランシスコ・ザビエル像が建っています。この像は、1952年に建てられました。ザビエルは、1547年にマラッカで鹿児島出身の元武士ヤジロウ(安次郎?)と出会い、この教会を拠点に日本への布教に出発しました。ザビエルは死後62年経った1614年、右腕下が切り取られ、その右腕はローマ・ジェズ教会に安置されました。この像ですが、よく見ると右腕下部分が欠損しています。実は、落雷による倒木で欠損したらしいのですが、何か不思議なものを感じますね。
前述のように、現在礼拝堂は廃墟で、屋根もなく、四方を囲む壁しかありませんが、中にはたくさんの墓石が立てかけられています。これらはオランダ時代のプロテスタントの墓石です。1957年、マレーシアが独立すると、イスラム教のマレーシア政府は、この丘にマラッカ州知事公邸を作りました。その際、異教徒の墓石を撤去しようとしたのですが、何とプロテスタントと激しく対立していたカトリック教徒の尽力により、この礼拝堂跡に運び込まれたのだそうです。
サンチャゴ砦/セント・ポール教会
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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