「まぼろしの薩摩切子 スライドレクチャー」 サントリー美術館

サントリー美術館港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウンガレリア3階)
「まぼろしの薩摩切子 スライドレクチャー」
3/28 20:00~20:30



「まぼろしの薩摩切子展」会期初日夜、六本木アートナイトに関連して行われたスライドレクチャーを聞いてきました。早速、以下にメモをまとめます。

[薩摩切子展開催について]

薩摩切子とは江戸末期、薩摩藩のみで制作された和製カットガラス。
最盛期は島津斉彬(1851-58)の藩主時代。
現在確認されている作品は僅か約150点。うち120点を紹介する。
新出は色被せ(色ガラス)9点、無色切子19点。
東京では27年ぶりの切子展である。

[薩摩切子略史]

『起』1846年 薩摩藩第10代藩主、島津斉興(斉彬の父)がガラス製造を開始。
 当時、薩摩藩は財政難で苦しんでいた。そのため産業勃興をはかった斉興は薩摩より全国に売り出す特産品の育成に乗り出す。それが薬だった。
 そして薬を入れるためのガラスの器も制作する→ガラス制作で先行していた江戸より職人を呼び寄せる=薩摩切子の始まり。

『承』1851年 島津斉彬が藩主に就任。
 切子を器、工芸品からアートの域へと高める。
 江戸の切子とは異なる、薩摩独自の色と形の完成に力を注いだ。
 海外への販売も積極的に行う。

『転』1958年 斉彬急逝。
 そもそも薩摩藩の財政難を解決するためにはじまった切子制作が、いつのまにか芸術と化し、むしろコストがかかって藩の財政をさらに悪化させていた。
 →音頭をとった斉彬の死とともに、切子制作も一気に斜陽へ。

『結』1963年 薩英戦争勃発。
 切子制作の工房をイギリス軍が砲撃、そして破壊。
 戦争終了後、藩の興業、反射炉や造船などのいわゆる「集成館事業」は次々と再開されたが、ガラス製造のみはついに復活することがなかった。

[展覧会の構成]

〔第1章:憧れのカットガラス〕
 前史。薩摩切子の誕生に影響を与えたガラス工芸品(イギリス、ボヘミア、江戸)を概観。

・長崎経由の輸入品
 外国のガラス工芸品は既にオランダ船を通して日本へ伝わっていた。
 斉興が30代の頃、長崎でイギリスのガラス品を購入、それをメガネに用いていたこともあった。=斉興所持のガラス品を展示。
 
・江戸と海外のガラス工芸と薩摩切子

(江戸切子) (薩摩切子)*共に蓋付三段重

 「江戸切子 蓋付三段重」:かごの目を編んだような模様
 →「蓋付三段重」及び、ボヘミアの「カットガラス 皿」と類似。
 イギリスの「カットガラス皿」
 →「紅色被皿」模様はイギリスの作に似ているが、薩摩は紅色と無色のガラスを二層に被せている。
 =相互に共通する図柄はいくつか存在している。

・江戸と薩摩の相違点
 江戸切子の発祥は民間。薩摩は藩の全体の事業。また江戸は色を発色することは可能だが、それを二層で表すことは出来なかった。
 一方、薩摩の『色被せ』は二層を実現。
 江戸の単一紋に対し、薩摩は何種類もの紋を組み合わせる。

・実用品としての切子
 「ホクトメートル」(比重を計る器具)
 シリンダーの底のカット模様=薩摩切子の前段階の可能性も。

〔第2章:薩摩切子の誕生、そして興隆〕
 美術品となった切子を辿る。

・紅色ガラスの開発

(紅色被鉢)

 銅赤ガラス=やや暗めの紅色が特徴
  デキャンターの作成:元々日本にはなかった形。西洋のガラスから模様だけでなく、形そのものも取り出した。
  脚付杯:同じく西洋の形。薩摩が日本へ取り入れた。
  =「紅色被脚付杯」は紅色ガラスとしては現存する唯一の薩摩脚付杯

・薩摩縞の導入=薩摩で伝統的な染色模様
  太い線と細い三本の線が並ぶ

(藍色被船形鉢)

 ・通称『船形三兄弟』:「藍色被船形鉢」、「船形鉢」、「筆洗」
  藍色被船形鉢を小さくした形が筆洗。同じ形を意匠を変えて使う。

〔第3章:名士たちの薩摩切子〕
 献上品としても重宝された薩摩切子。松平家や井伊家所蔵などの切子を俯瞰する。

・篤姫所用の「藍色栓付瓶」
 切子のひな道具も開発した。
・松平と井伊家=思想的に薩摩と対立関係にあった両家にも切子は伝わっている。
 松平家「紅色被鉢」
 井伊家「紫色被栓付瓶」
・岩崎家所用
 「藍色被三ツ組盃・盃台」:岩崎俊彌氏旧蔵→コーニング美術館所蔵。
 *コーニング美術館:ニューヨーク州。世界最大のガラス美術館。なお一度、ハリケーンに襲われ、所蔵の美術品が水浸しになったことがあった。本作も一部に傷がついている。

〔第4章:進化する薩摩切子〕
 薩摩切子の後半生。

(黄色小鉢)

・色彩の多様化:「黄色碗」(オリーブ色がかっている。)
 薄紫、黄色の多用。
・形のモダン化:「藍色被脚付杯」:斬新な四角形。

〔第5章:薩摩切子の行方〕
 薩英戦争を契機に、明治維新でほぼ制作が終了した薩摩切子。またその亜流を追う。

・薩摩系切子
 各地に流れた作家たちが切子制作を独自に継承。

(宮垣秀次郎 紅色被鉢)

 宮垣秀次郎作「薩摩系切子 紅色被鉢」(明治14年):宮垣は薩摩の元職人と考えられている。
  一見、薩摩切子と同等だが、細部の意匠が異なっている。
 →のち、薩摩系切子はカットにぶれが生じるなど質が低下。制作は廃れていく。

以上です。

作品に重複する名称が多く、図像も少ないので分かり難くなってしまいましたが、薩摩切子史、もしくは展示の流れなどを大まかに掴んでいただくことは出来るのではないでしょうか。なお実際のレクチャーではスライドを用い、より視覚的に理解し易く解説されていたことを付け加えておきます。

ところで薩摩切子は佐治敬三氏がサントリー美術館を設立する際、一番初めに蒐集したコレクションであったそうです。同美術館では27年前の切子展以来、再度現地鹿児島への調査を行うなど、研究のさらなる発展にも勤しんでいました。今回はその成果発表としても見るべき点の多い展覧会なのかもしれません。

なお5月10日の午前(10:30~)と午後(15:30~)にも上と同内容のスライドレクチャーが予定されています。料金は入館料のみ、また事前申し込み不要のイベントです。関心のある方は参加されては如何でしょうか。

この美術館が切子のために作られたかのような錯覚さえ受けるほど完成度の高い展覧会です。色、形だけでなく、照明より輝くガラスの影にも注視して下さい。

5月17日まで開催されています。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )