ご飯でちゅよぉ
話し手が「親としてやれることはやってやらないといけないと思いますので」と言っているのに、テロップは「親としてやれることはやってあげないといけないと思いますので」と書いてありました。「親として」でお分かりのように、やってやらないといけない、その対象は自分の子どもです。なのに、一体なぜ「やらないと」をわざわざ「あげないと」と書き変えるのでしょうか。
テロップのいいかげんさについてはこれまでたびたび書いてきましたが、そのテロップが、敬語のつもりで言っているらしい変な「やられる」をそのまま書くテロップが、なぜかここだけはみんなほぼ同じ、「~てやる」を「~てあげる」に書き変えているのです。「かきかえる」の表記は、特別な意図の下に変更を加えるという意味の「書き変える」ですよ。
親が子に対して「やってやらないといけない」は、間違いでも何でもない、当たり前の言い方です。そういえば、「この絵は娘に描いていただいて・・・描いてもらって」と言い直したお母さんがいました。一般の人ですが、残念ながら放送業界にまん延している変な日本語に感染していますね。
「親としてやれることはやってやらないといけない」と聞いたとき、決して子どもを甘やかしてはいない、でも、親の責任ということをきちんと考えている、親らしいすてきな人だと感じました。なのに、なぜそれをわざわざ書き変えるんだ( ̄ ̄)? 久しぶりに感心したのに、ぶち壊しじゃないくわぁ~っ!
まだまだありますよ。かわいい動物が主役の番組で、「犬のご飯とかやってみた?」という獣医の問いに「やってみたんですけど・・・」と答える飼い主、犬のご飯というのは単にドッグフードということですが、そのとき、テロップはやはり「あげてみたんですけど」でした。だらけっ( ̄д ̄)!
私もかわいいハムやんに向かって「は~い、ヒマ種あげまちゅよ~」なんて言ってますよ、言ってますけど、「花に水をやる」「犬に餌をやる」は、わざわざ書き変えなければならないほど品がないというわけではないのですから、話し手が「やってみたんですけど」と言っているのを勝手に書き変えないで! 敬語もどきの「やられる」のほうがよっぽど品がないですよ、こっちを何とかして~。
話し手が「親としてやれることはやってやらないといけないと思いますので」と言っているのに、テロップは「親としてやれることはやってあげないといけないと思いますので」と書いてありました。「親として」でお分かりのように、やってやらないといけない、その対象は自分の子どもです。なのに、一体なぜ「やらないと」をわざわざ「あげないと」と書き変えるのでしょうか。
テロップのいいかげんさについてはこれまでたびたび書いてきましたが、そのテロップが、敬語のつもりで言っているらしい変な「やられる」をそのまま書くテロップが、なぜかここだけはみんなほぼ同じ、「~てやる」を「~てあげる」に書き変えているのです。「かきかえる」の表記は、特別な意図の下に変更を加えるという意味の「書き変える」ですよ。
親が子に対して「やってやらないといけない」は、間違いでも何でもない、当たり前の言い方です。そういえば、「この絵は娘に描いていただいて・・・描いてもらって」と言い直したお母さんがいました。一般の人ですが、残念ながら放送業界にまん延している変な日本語に感染していますね。
「親としてやれることはやってやらないといけない」と聞いたとき、決して子どもを甘やかしてはいない、でも、親の責任ということをきちんと考えている、親らしいすてきな人だと感じました。なのに、なぜそれをわざわざ書き変えるんだ( ̄ ̄)? 久しぶりに感心したのに、ぶち壊しじゃないくわぁ~っ!
まだまだありますよ。かわいい動物が主役の番組で、「犬のご飯とかやってみた?」という獣医の問いに「やってみたんですけど・・・」と答える飼い主、犬のご飯というのは単にドッグフードということですが、そのとき、テロップはやはり「あげてみたんですけど」でした。だらけっ( ̄д ̄)!
私もかわいいハムやんに向かって「は~い、ヒマ種あげまちゅよ~」なんて言ってますよ、言ってますけど、「花に水をやる」「犬に餌をやる」は、わざわざ書き変えなければならないほど品がないというわけではないのですから、話し手が「やってみたんですけど」と言っているのを勝手に書き変えないで! 敬語もどきの「やられる」のほうがよっぽど品がないですよ、こっちを何とかして~。