かぶれの世界(新)

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台風と竹内まりや

2019-10-12 11:58:54 | 音楽
竹内まりやは台風と何ら関係ない。私が台風19号と腰痛で何もすることが出来なくなり、竹内まりやを聴いて感傷的になり思い出にふけったという、どうでもいい話だ。

腰痛が再発して木金のバドミントンの練習を休んだ。原因は72才になったのに始めると歯止めが利かなくなる懲りない性格で、ついついトレーニングをやり過ぎた為だ。一昨日はハードなトレーニングは避けたが、それでも万歩計が1万歩を指していて腰痛は良くならなかった。

もう動くなということだ。昨日は庭より外に一度も出なかった。築100年以上の農家と庭の隅々を動き回ったが、万歩計は5千歩余りだった。時間潰しに書斎でテレビや新聞の台風19号のニュースを見るのに飽きて、数日前に録画した竹内まりやが40曲を歌うNHKの特番を見た。

2003年に早期退職後に母の介護の為に、実家をバリアフリー化し監視カメラを設置した。同時に長期間田舎にいる日に備え、2階の全室を改修して書斎や客室等を作った。書斎にはネット環境を整え100インチスクリーンとビデオアンプを設置し、映画やコンサートを5チャンネルで楽しめるようにした。最近は滅多に見なくなったが、竹内まりやは臨場感のある大スクリーンで見たかった。

退職して数年後に竹内まりやが「人生の扉」を出して新境地を開き、それを機会に私は遅咲きのファンになった。年令を重ねて残りの人生をどう生きるかみたいな歌詞と彼女の歌い方が退職した私にピッタリ嵌った。後半の英語の歌詞が気に入り、当時ネットで知り合ったシラキュース市の病院の看護婦長にYouTubeで紹介したこともある。一度で最後のことだ。

それまで彼女は歌は60年代の米国のヒットチャートを賑わしたコニー・フランシス日本版みたいな印象があった。歌は上手いが若者向けのチャラい曲という印象があった。その頃結婚した娘の夫君が話を聞いて竹内まりやのアルバムをプレゼントしてくれた。何度かそのアルバムを聞くと30年以上前に作られたのに単に懐かしいというより、新鮮に感じる部分がありファンになった。

そして、今日特番を見て何故彼女の曲が未だに新鮮な印象を与えるのか夫君の山下達郎の説明を聞いた。彼女は自分の特徴を脇に置いて、依頼された歌手の特徴を生かす曲作りをした。加えて時々の時代が求める流行り歌に左右されず、音楽道の真中を歩く曲作りをしたという。説得力があった。多分それが私が遅咲きの竹内まりやファンになった理由だと思う。

番組では彼女の曲が年代順に紹介された。初期の歌い方は2000年以降のコンサートで紹介された曲より下手くそに聞こえた。当時の録音技術が拙かったせいだけではないように思う。年令を重ねると共に単に歌の上手さに加え、彼女の音楽観が歌に深み与えたのではないかと素人なりに感じた。

そしてもう一つ気付いた。彼女は60台半ばで、私とそう違わない年令だった。だが、特番で見た彼女は年令よりずっと若々しく見えた一方、しっかりした考え方をする人だった。哲学があった。彼女の属する音楽の世界に限っての話だが、比べて私の世界観の何と狭い事かと思い知らされた。台風さんありがとう。■
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懐かしのカントリー

2016-12-24 18:14:39 | 音楽
たまには気分転換で音楽の話題をしたい。90年代半ばに米国に単身赴任した時、テレビ放映される頻度が圧倒的に多いせいもあって半年もたつと立派なカントリーミュージックのファンになった。テレビで見た女性歌手は美人で歌が上手くて、毎日テレビで見れば自然とファンになってもおかしくない。

その頃はシャナイア・トウェインが圧倒的人気で、2枚目に出したCDが1千万枚以上売れ、カントリーのジャンルを超えて人気ナンバーワンを争っていた記憶がある。彼女は短期間にトップに上りつめたので、リリースしたCDはそれほど多くなくシアトルのタワーレコードを探しまくった。

サクラメントに引っ越してすぐカリフォルニア州の博覧会(State Fair)があり、暇潰しに行くと会場の一角で無名の歌手(少なくとも私には)のカントリーソングのコンサートがあった。そこでビールを飲みながら聞き覚えのあるカントリーソングを聞いていると、米人同僚夫妻に出会い世間話を楽しんだ記憶がある。カントリーのそんなのんびりした気分にしてくれるところが好きだ。

女性カントリー歌手は概して美人で歌が上手かったが例外もあった。歌のうまさは抜群なのに顔立ちはそれ程美人じゃなかった天才少女リアン・ライムがもう一人のお気に入りだった。シャナイアとリアンがリリースしたCDは殆ど買ったと思う。他にも当時シャナイアと双璧の美人歌手がフェイス・ヒルだったが、私はそれ程ではなかった。

帰国し2000年頃に買ったCDジャケットを見て登録したカントリーソングのメールマガジン「Nash Country Daily」が今でも毎週届く。最近寂しいのは上記の歌手たちのニュースが全く流れなくなったことだ。逆算するとシャナイアやフェイスはもう50歳前後のはずだから、かつてほど活動せず露出が少ないのかもしれない。だが、今でも大御所のドリー・パートンやレバ・マッキンタイアはしょっちゅう登場する。

イラク戦争でブッシュ政権を非難してナッシュビルで出禁扱いになったDixie Chicksや、カントリーから一桁市場が大きいメジャーのポップスに転向したテイラー・スイフトもメルマガには登場しなくなった。ナッシュビル・レーベルにもカントリーというよりポップスっぽいものが結構あると思うのだが、一旦彼等がカントリーじゃないと決めつけるとそうなってしまう狭量さがある(と聞いたことがある)。

私は音楽より美人歌手が好きなだけではないと最後に言い訳しておきたい。米国にいた時同僚に美人歌手のCDばかりあると皮肉っぽく言われたことがある。そんなことはない。例えば男性歌手の中ではジョージ・ストレイトのファンで、2,3枚程度だがCDを持っている。だが、彼も年をとり全国ツアーをやめたと宣言、それ以来メルマガにも登場することが少なくなった。最早、懐メロならず懐カントリーのファンになってしまったようだ。■
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モーニングジャズ

2015-05-01 22:35:47 | 音楽
正しくは「朝の車中のジャズ」だ。毎月曜の朝に行く母の見舞いを連休の間だけ金曜の今日に変えた。朝の連ドラが終り暫く時間を見計らって車に乗った。いつも時計代わりに聞くラジオの番組が多少違うだろうと思い、気分転換を兼ねて義弟がくれたマイルス・デービスのCD(Kind of Blue)を聞くことにした。

と言うのは昨年彼の車で愛媛県の南端にある愛南町に名物の「びやびやかつお」を食べに行った時、車中で聞いたマイルス・デービスのトランペットが朝の気分にピッタリで凄くいい気分になったからだ。部屋で聞くよりピッタリはまった。だが、私の車で聞いた今朝のマイルス・デービスは全く駄目だった。

車の雑音が酷くて部屋のステレオセットで聞くトランペットの微妙な音色が吹き飛んだ。旋律だけしか聞こえてこない。若い頃から分不相応に車好きの義弟は、今も大きなベンツ(Cクラスというらしい)に乗っている。彼に言わせると乗り心地もさることながら車の中で良い音楽が聴けると自慢していたのを思い出した。

半年前の音の記憶と比べ余りの音質の違いにがっかりしたと同時に、ラジオから流れて来るJポップや演歌が結構いつもテレビで流れる音と同じように聞こえるのに気が付いた。成程そういう音の作り方をしているのかと勝手に想像して感心した(本当はどうか知らない)。余りお金をかけなくても同じ音が聞けるような作り方と言うのも凄いなと感心した。それはそれでビジネスとしてはありだと。

付け加えると去年彼のベンツの車中で聞いたマイルス・デービスは美味しいコーヒーが飲みたい気分になった。今日はそんな気分にはならなかった。そうなる前にCDからラジオに切り替え、「朝の小話」番組を見つけて馬鹿笑いしながら母のいる介護施設に向かった。■
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台風前夜のジャズフェス

2014-10-14 09:45:46 | 音楽

 昨日の昼小雨の中、最寄りの駅近辺の商店街に弁当を買いに出た。オカズのカツを揚げて貰う数分間断って駅の周りを歩くと、ちょっと洒落た黒いTシャツを着た男性がJazz in Fuchuのパンフレットを配っていた。「雨だけどやってんだ」と声をかけると、「屋内会場だけになりましたが、やってます。駅の向こう側のモールでもやってますのでどうぞ。」と返事が返って来た。

 大震災で自粛していたジャズフェスが5月から10月に時期を変えて再開したと息子から聞いていた。今迄は田舎にいて聞けなかったが、今年こそと思っていたのに台風が来て残念と思い、そこで思考停止していた。モールまで足を延ばすと広場に小さな人だかりがあり、そこからクラリネットが聞こえて来た。直感ではプロの音だ。やっぱり生は良いなと思いながらトンカツ屋に戻った。

 台風19号が速度を速め日本縦断しそうな勢いで午後になると徐々に雨足が強くなり、とても外出する気分にならなかった。夕方になって読書に飽きてコルトレーンを聞きながら、改めてパンフレットを見た。今年は市内の23会場で120のバンドが参加するという。学生や社会人からプロまで参加するが、有名な阿佐ヶ谷みたいに一流ミュージシャンは出演しないと思っていた。

 だが、パンフレットのプログラムを見るとメイン会場のトリで、ジャズフェスのアドバイザーをやっている谷口英治と彼のカルテットと、大井貴詞(Vib)と赤木りえ(fl)がゲスト出演して即席のセッションが予定されていた。この人達を無料で聞ける、これを見逃す手はないと急に思い立ち雨の中ウィンド・ブレーカーを羽織って足早にけやき通りのホールに向かった。10分足らずの距離だ。

 会場はあちこちに空席が残っており、5列目センター付近という絶好の場所に空席を見つけた。待ち時間に洗足学園の学生バンドが通路をマーチングした。耳元で管楽器やドラムをガンガンやられて耳がおかしくなった。本番は最初にカルテットだけで2曲、その後ゲストが加わって3曲やった。学生バンドで耳がおかしくなったのか、コルトレーンと聞き比べたせいなのか、或いは即席のセッションのせいかはっきりしないが、初めは音が過剰に主張し合っているように聞こえた。

 最近CDばかりでライブで聞かなくなって、生の音に慣れてなく圧倒されたせいかも知れない。それでも谷口氏がちょっとファンキーだという4曲目あたりから私の耳にもなじんできたように感じて、生演奏を楽しめたと思う。(いつも理由にする)年のせいで聞いたことがあるはずなのに最後のルパン3世のテーマ以外に曲名が全く思い出せなかった。情けない。更に強くなった雨の中自宅に戻ると7時半ばで、家族は夕食が終わる頃だった。■

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歌詞が先か、曲が先か

2012-10-12 21:50:18 | 音楽

向きジャズ・カントリーのファンだという私の音楽の軽口です。「歌詞が先か、曲が先か」、といっても曲が出来るまでのプロセスの話ではない。私はそんな話題をする音楽のレベルにない。柄でも無いし。私がどんな風に音楽を楽しんでいるか、チョット書いてみただけのごく軽い駄文です。

義弟は筋金入りの音楽ファンだ。若い時から分不相応に高額なステレオセットで、優れた録音品質の名演奏を聴いてきたプロ級の耳を持った音楽の理解者と自称する。彼は一流の音楽のみ認める。一流を聞き分ける耳を持つかのように、時間をかけて名演奏を「聞き込む」と良く表現する。彼のレベルに達しないメカ・音源(録音)・楽曲を辛らつに評する。

彼の揃えてくれたステレオセットでCDを毎日聞いている。だが私の本音は、その時その時心地よいと感じる音楽をジャンルに関係なく理屈もなくただズルズルと聴く。音質は良いに越したことはないが絶対条件ではない。退職後、独りで過ごすことが多くなり色んな音楽を聴くようになった。その中でも、パソコンを操作しながらBGMとして音楽を聴くことが圧倒的に多い。

となると、クラシック以外はパソコンを経由して音楽を聴くことが多い。スピーカーもアンプも一級品とは程遠い。しかし、世界中で今どういう音楽が支持されているか分かり、一方で若い頃ヒットした曲が映像とともに懐かしく聞けるYoutubeを重宝している。そこで私が改めて心に沁みるのは音質より歌詞だ。歌詞が表示されるYoutubeはその点でも便利だ。

情的で懐古調の曲を近年好んで聞くようになった。Youtubeのお陰でかつてボーカルも楽器を含めて一つの“音”として聞いていた歌詞の意味が分かるようになり、その内容に触れて新鮮に感じ好きになった曲がある。元々詩が若い頃を思い出させる松田聖子の「蒼いフォトグラフ」とか森高千里「渡良瀬橋」みたいなのも好きだったが、義弟にそう言うにはいささか躊躇う。言うとすれば若干気取ってジャズやカントリーとかラフマニノフだ。それが冒頭の表向きの理由だ。

3.11後私の好みが更に感傷的な方向に向かったと自覚している。中でも嵌まったのが以前投稿したように70年代に吟遊詩人といわれ活躍したダン・フォーゲルバーグで、今でも時々思い出したように聞く。好きなのはLonger, Run for the roses, Leader of the band, Same old lang syneなど。メロディも良いが特に歌詞がいい。彼の曲はどれも聞く者を優しい気持ちにさせてくれる。特に傷ついた人の心には響くのではと思った。最後の曲など聞くたびにウルウルしてくる。

去年大阪の義弟のうちに泊まった時、彼のパソコンを開いてこの曲を紹介した。すると彼は「感傷的で甘っちょろい」と酷評し、私は全ての音楽性を否定されたようで二の句が継げなかった。勿論、彼に悪気は無いし深い音楽の知識があっての発言だと分かっている。その言葉は今も頭の隅に残っている。彼とは音楽性を議論する積もりはないしその知識もない。ただ教わるだけだ。それはそれとして、これからも歌詞のもつ意味を良く噛みしめた楽しみ方を止めるつもりはない。

歌詞の意味を考えるようになって、今まで敬遠していたJ-POPのかなりが人生の応援ソングだと気がついた。多くの人に受け入れられるのは歌詞の持つ力があるからと思う。私には先入観があって唯の騒々しい流行の歌みたいに思っていたところがある。そう思えば好みじゃないと思っていた演歌もそう悪くないかもしれない。最後に音楽性を云々する積もりは全くない、あくまでも自分の好みを言ったまで、この件で議論する気はありません。■

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