八十路徒然なるままに

のどかなる日影に、垣根の草もえ出づるころより、やや春ふかく霞わたりてーーー。徒然草より

災害は忘れたころにやってくる。

2013年03月08日 19時36分32秒 | Weblog
災害が起きた時は、身近の状況の判断と、情報を収集する。地震が発生した時は、バイパスを走行していた。ラジオから、緊急地震情報が、聞こえた。下り坂を下りはじめた所で、車を止めた。下りきったところは、ちょっと長い陸橋だ。その陸橋が、上下左右にたわみ、うねって、揺れ動いた。その動きが、車をゆすり動かしてきた。揺れがおさまり、一般道を引きかえして、午後四時ころ戻ってきた。すぐに水。風呂に水をためた。間もなく断水。古い建物のガラス戸が割れて散乱。隣組を一軒一軒声をかけて様子をみて歩いた。飲み水がないという、ひとり暮らしには、やかんにひとつ、水洗の水がないところには、バケツで届けた。幸いに、電気とガスは、使えた。夜になっても、強い余震のたびに、近所の倒れたブロック塀や、外壁がはがれたところを、通行の障害なっていないか、見てあるいた。テレビを見ると、原子力発電所の様子が、映しだされている。50キロ先の原発なので、「へえぇ」なんて、見ていた。「もしかして」と、思い、夜遅くなつたが、市役所に、何か連絡事項があるかもと、行ってみた。市役所も外側のカラスが割れ、飛び散っていた。玄関から入ると、床がでこぼことなっていた。町内会の自主防災会のヘルメットをかぶり、原発のことで、何か情報があるかどうかをたずねた。「今のところは、出ていない」だった。いわきの沿岸部が、津波にやられていたとは、その時、わからなかった。原発事故の重大さは、翌日12日夕刻に、原発から20キロ圏内から、避難をしてきた人に会い、はじめて気ずいたのだった。画像は、当時、市役所からの「お知らせ」の一枚。震災のあった年の5月にも載せた。震災のあったあと、12日から毎日、「お知らせ」を取に行き、コピ-をして、隣組と近隣に配布をはじめた。その「お知らせ」は、ファイルして、今も、持っていると、最近聞いた。ちょつとは、役にたつたかぁなぁと、思っている。

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