八十路徒然なるままに

すざまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日のあまりの空こそ、心ぼそきものなれ。徒然草より

大震災当時の食料等の配布

2020年03月10日 19時07分51秒 | Weblog

画像は、九年前の3月21日のお知らせの一枚。ペーパーには、避難所以外においても、「一般市民向けの食糧等配布」する、お知らせ。この時は、放射線の安全性、放射能測定値、食料等の配布、断水の復旧の見込みと給水場、ヨウ素剤の配布、救急外来の実施、医療に関すること、計8枚を、印刷して、綴った。コピー機と印刷機のフル稼働をした。放射能測定値、139報によると、福島第一原発から北西約61キロの福島市では、7.47。北西約40キロの飯館村では、12.10と。南南西43キロのいわき市合同駐車場で5.04と、報じていた。健康に影響しないレベルとある。配布した中に、ヨウ素剤配布のことがある。当時の3月12日に、原発事故で、20キロ圏内の知り合いが、ヨウ素剤を握って、逃げてきたと言うので、「ええっ、ヨウ素剤 ?」と、驚いたものだった。先月から、コロナウイルスの恐怖が、続いている。原発事故からの放射線より、ひどい状況のようだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

避難をした日

2020年03月10日 13時58分39秒 | Weblog
前掲の画像の右側は、当時の3月15日、0:20と、記入をしてある。隣組に配布を終わり、原発がおかしくなっているようで、いわき市災害対策本部からも、不要不急の外出は控えるようにとの、知らせがあつた。原発の事故が大きくなったら、どうなるのか、まったく理解していなかった。街の中は、人影もない。車の燃料を捜してみたが、どこもダメ。往来する車もない。ゴーストタウンだぁと、不安になった。水をどうぞという会社に行くと、これから非難をするというので、びっくりしたものだった。連日連夜の、余震の揺れに、恐怖を感じた。原発の状況は、テレビが報じていた。原発は安全だぁ、55
キロ先のことだぁでいた。でも、急遽、非難することになり、まずは、介護用品のポータブルトイレ、車椅子、マットレス、おむつと、食べ物を車載をして、午後4時過ぎに、家を離れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時は巡って

2020年03月10日 13時18分50秒 | Weblog

思い出すたび、気が滅入るする、大震災のあの日がくる。画像は、当時の、3月14日と、15日に、隣組に配布をした、市役所からのお報せの資料の表紙。市役所に、資料を取りに行き、戻って、それぞれの資料を約30枚をコピーをした。その間に、手書きをした。当時は、町内会の防災組織があったが、全く機能をしていなかった。当時の町内会の会長が、給水の袋をぶら下げて、戻ってきたのをみて、「どこで、給水しているのぉ」と、問った。防災会の会長なのになぁと、呆れてしまつたものだつた。小生が町内会に携わっていた時に、せめてヘルメットは、配布するべきと、強く申し入れたものだった。このヘルメットが、通行手形で、市役所に行くと、「ご苦労さまです」と、ねぎらわれた。連日、余震が続き、大きくならなければいいがなぁと、案じていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする