2・3年前に、母が、鉢植えの「ミニばら」を買ってきたのを、地面に移して置いた。
今年は、丈が50センチくらいに伸びて、結構、見栄えのする「ミニばら」になった。
何をもって「ミニばら」と命名するのか・・・丈、花?。
ピューリツァー賞を受けた報道写真で、少なからず、衝撃を感じたものがあった。
アフリカの内戦(だったと思うが)の中、今にも死にそうな少年の傍で、ハゲタカがその死を待っているような無常感漂う写真である。
なんと言葉を発していいのか・・・何という現実なのだろう、子供が可哀相だ、何の意義があっての戦争なのか・・・でも、ちょっと心を掠めたのは、報道写真とはいえど、人間として、こんな状態の現場で、シャッターを押せるものかな・・・という疑問だったのを覚えている。
でも、場所は日本から(私の生活から)は、遠くく離れたアフリカの事、どこかで「他人事」と忘れ去っていた。
写真を撮ったケヴィン・カーターは受賞した3ヶ月後に自殺したそうだ。
彼は、自殺を選択する程、世間の批難か、己の行為かを、苦しんだのだろうと想像できる。
毎日新聞5月29日付「今週の本棚」欄を眺めていた時、「報道を受け止める側のまなざしを問う・・・有名な一枚の写真が紹介される。今にも死に至りそうなやせ衰えた・・・」という文字に目が留った・・・あの写真の事?。
「A・クライマンほか著、他者の苦しみへの責任」 みすず書房
「他者の苦しみへの責任」と言われても、何のことかすんなりとはわからない・・・この本では、たとえば、ハイチで貧困とエイズの苦しむ若い女性・・・政治や経済や制度による力によって生み出されている人々の「苦しみ」が扱われている。またその苦しみを見る他のまなざしも扱われている・・・日本とは遠いようだが、実は本の随所に、今の自分の立ち位置を、考えさせるポイントがある・・・(小西聖子評抜粋)
聖人になれと言われてなれなかった時、人は自分を恥じるのではなく、聖人を批難することで自分のふるまいのアリバイを作る・・・ケヴィン・カーターの写真は実際ピューリツァー賞に値する名作だった。われわれの置かれた状況を見事に説明していた。見るものは惹きつけられると同時に居心地の悪さを覚え、苛立ち、それを写真家にぶつけた。この光景をみよ、と示す指に歯を立てた・・・(池澤夏樹解説から抜粋)
「読みたい」と思った。「読まなくては」とも思った。
すぐに、「Amazon.co.jp」で発注する。
6月1日、単行本が送られて来た。
早速、本を開いて、「うーん、読めないかも・・・」、活字が小さいのだ。
私の衝動買いは、活字の大きさだけで沈没しそうであるが、これは、意外と、大事なことだと思う。
まぁ、何時ものように、ボチボチと読んでいくつもりではあるが・・・。