「やぶへびいちご」でしょうか、一見、美味しそうな実が・・・
最初に、これは批判ではないことを、お断りしておきますね。
3月11日の大震災以来、今まで日本国内で行われきた、一見、順調と思われていた事が、次々と「ボロ」が見えてきて、「何をしているのか!」「騙された!」「信用できない!」「不十分だ!」などなど、批判と落胆の声が巷にあふれている。
そう言いたい気持ちは「十分」理解できる(つもり?)と思っている。
が、反面、すべてに「十分」になんてありえないとも感じているのも事実だ。
でも、だからこそ、当事者でない私としては、「これで十分」とは結論づけないようにしてきた。
で、何故、今、「十分」に引っかかっているのか・・・。
あるイベントを開催する予定がある。
多数の人に通知を出すので、その際に「震災被災者への義援金募集」のお願いを同封して欲しい旨の提案をした。
イベントの幹事達から、案を図ったが多数決で否決されたという結果が届いたのだ。
その否決理由が「大方の人は、あちこちで、もう十分に募金をしている」ということのようだった。
「十分ねぇ・・・大金は期待してないけれど」と、考えてしまった。
「十分」には、量的にも質的にも、さまざま基準があることは承知しているから、その否決理由に異論は無い。
けれど、さまざまあるからこそ、しばし自分の事情よりも相手の事情を考慮して見て・・・と思ってしまうのだ(悪い癖かも?)。
私の募金額は世の基準からすれば、決して「十分」な額ではない。
けれど、一度に、たくさん支出すると、我が生活が困窮するから、「サイフ」に聞きながら、許されれば、その都度募金を続けている。
活動最終期限まで続けて行きたいし、最後に集計を取ったとしても「十分」な金額にはならないのは確信できるが、気持ちとしては「十分」全う出来たと満足できるように思うが・・・。
今日は暑いし、ひどい湿度である。
冷房も扇風機もかけず、暑さにうめき、したたり落ちる汗まみれの中、ひとりよがりの考えに、どうどう巡りし落ち込んでいます。